ようこそ日本の危機へ!このブログでは主に最新のニュース、政治、教育問題を取り上げております。

少子化はなぜ止まらないのか (その2) ―― 少子化問題を歴史から考える / 聖徳太子・天智天皇・天武天皇の三代で築いた「国家のかたち」

  • 2026年6月13日
  • 歴史
  • 24view

「日本はどういう国ですか、と留学先で聞かれて答えに窮してしまったという経験を多くの人がしています」

女性

「伝統と文化の国と言えば良いと思いますけど……」

「国として何を目指しているのかと聞かれたら、どう答えますか?」

女性

「国家の価値観が絡む質問だと思います。難しいですね。憲法の前文で平和主義と国際協調を謳っていますので、そのように答えれば良いと思います」

「富国強兵は、どうしたのですか?」

女性

「それは明治時代の話だと思います」

「明治以降、現在まで戦争をはさんで政権は続いています。国家目標が変わるのは、おかしいと思います」

女性

「敗戦により変わらざるを得なかったのだと思います」

「ということは、富国強兵を国家目標としたこと自体が誤りということになります」

女性

「誤りかどうかは分かりませんが、無理があったことは確かだと思います」

「であるならば、それについて明治の初めに戻って総括すべきですが、それをしていません」

女性

「そうですね。日清戦争、日露戦争バンザイと言っていますからね」

「それも含めて総括をしないから、いまだに中国や韓国から歴史認識と言われるのです。そして、国家目標を新たに提示する必要があります」

女性

「高市総理が強い経済と言ってましたけど……」

「それは総理の考えですよ。新しい総理になれば別のことを言い出すでしょう」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「Sekaika!![せかいか!]提供です」」

 日本の原点とは何か――失われた国家目標を探る

「日本とはどのような国なのか」という問いに答えを窮してしまう現象は、留学や海外赴任、あるいは外国の友人との交流の場で非常に多くの日本人が直面する共通の経験です。これは個人の知識不足というよりも、日本の歴史教育の問題だと思われます。

現在の学校教育では、文科省の検定教科書を通じて「明治維新中心史観」が広く国民に浸透しています。しかし、維新を中心にして考えると、2人の会話にあるように、国家目標が定まりません。本来の軸ではないところを基準に歴史を見るため、多くの事象が歪んで見えてしまうのです。少子化の原因が見えなくなる背景にも、この歴史認識の問題があるのではないでしょうか。そこで、日本の中心軸であり原点を確認するために、改めて歴史を振り返ってみたいと思います。

私は、日本のアイデンティティは約1400年前、聖徳太子、天智天皇、天武天皇の時代に確立されたと考えています。先人たちは、この国土を客観的に認識し、様々な経験を踏まえて「和の国」を目指すという国家目標を立てています。具体的には、君臣一体の家族主義的国家観のもと、人と自然との調和、さらには中国、朝鮮との友好関係の維持を目指しました。太陽のような温かい国を目指すということで、最高神を天照大御神とし、国名を倭から日本、称号も大王から天皇に改めたのです。そして、そのことを中国も含めて対外的に発信する必要性を感じて編纂されたのが『日本書紀』(720年)でした。

明治になって打ち立てられた国家目標は「富国強兵」でした。今の高市政権は強い経済を目指すと言っています。しかし、日本の原点は「強い国」ではなく、民(おおみたから)に優しく、自然に優しく、周りの国にも優しい国を目指したのです。そのために、女神を最高神としたのです。

天皇は中国語で、北極星を意味します。常に正しい方向を示す存在という意味が込められていたと考えられます。「皇」の字が入っているので、中国・朝鮮にどのような立場なのかは、推測しやすいという計算もあったと思われます。そして一般名詞なので、特に中国に使用許可をもらう必要もないという判断もあったと思われます。

(「JP-MIRAIポータル」)

 壬申の乱、大逆転勝利となった理由

天武天皇の時代を境にして、大王から天皇の称号に変わっています。そのきっかけとなったのが、壬申の乱(672年)です。天智天皇の子である大友皇子と、弟の大海人皇子との戦いです。最後の戦いは、関ケ原でおよそ1か月にわたって行われました。天下分け目の関ケ原と言いますが、日本最初の関ケ原の戦いだったのです。

最終的には、吉野で隠遁生活をしていた大海人皇子が朝廷の正規軍に勝利します。なぜ、勝利をすることが出来たのでしょうか。そこを突き詰めることが、その後の律令制の基本的な仕組みを理解する上で重要です。つまり、当時の朝廷は中央集権国家の日本をつくろうとしており、それに対する反発が強かったため戦いに敗れたとも言えるからです。

天智天皇は「公地公民」を掲げて全国に国司を派遣し、中央集権化を図ろうとしました。要するに、中央の貴族や各地の豪族が私有する土地を取り上げて、すべて国が管理するというものです。貴族や豪族からすると、先祖伝来の土地が取り上げられてしまうという理不尽な改革と思ったことでしょう。実際に、古人大兄、石川麻呂の反乱計画、有間皇子の変などが記録されています。

そういった不満があることを知っていたのが大海人皇子です。自分に対する追討指令が朝廷から出たため、わずかな手勢を連れて慌てるように吉野を脱出する道すがら、各地方の豪族に勝ったあかつきには従来通り土地を安堵する内容の文を送ったのだと思われます。そう考えると、多くの豪族が大海人皇子側についた理由が理解しやすいですし、大海人皇子の大逆転勝利の謎が解けるからです。壬申の乱は単なる皇位継承争いではなく、日本の統治のあり方をめぐる大きな転換点でもあったのです。

(「刀剣ワールド桑名・田度別館」)

 

 「シラス」の思想と日本型統治システムの誕生

壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位します。しかし、尊敬していた兄の子を討っての即位、胸中は複雑なものがあったと推察されます。そのため、天皇がこのような権力闘争をしなくても良い方法を模索したと思われます。それが「シラス(治ラス)」の考え方に繋がることになります。

前回のブログで書いたように、日本には中央集権国家の建設にとって必要な大河がありません。そのため、人・物資・情報を中央と地方で行き交わせることが極めて困難です。現代なら鉄道を敷けばよいのですが、それは不可能な相談です。ないものは仕方がありません。無理に中国の制度を導入するのではなく、今までの統治を踏まえての統治が良いのではないかという考えに至ります。

地方によって気候風土が大きく変わるこの国では、地方の特色を生かして各地の豪族がその地を統治し、天皇と「シラスーウシハク」の委任関係を結んで、日本全体を統治することが合理的であるとの考えに至ります。それをシステムに落とし込んだのが、「神祇官-太政官」の「二官八省」体制です。

天皇は神祇官(じんぎかん)に入って皇祖神を祀ります。その天皇を政務の面で支えるのが太政官の太政大臣、右大臣、左大臣の面々です。その時々の権力トーナメントを勝ち上がった人間、例えば平清盛、足利義満、豊臣秀吉、徳川家康といった人を太政大臣として任命するのです。このように権威と権力を分離することによって、天皇が権力闘争に巻き込まれないようにしたのです。この体制を律令制と呼んでいますが、日本的な文化はこの律令の約千百年間で花開くというように、日本独自の文化や共同体を育む土台となったのです。

(「ameblo.jp」)

読んでいただきありがとうございました。

よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

最新情報をチェックしよう!