
「薩摩、長州の行動を見ると、倒幕ありきで動いているようなところがあります」

「両藩とも関ケ原で西軍、つまり反徳川の石田方についたため、外様として冷遇され続けます。特に、四国の毛利家は大大名でしたが領地を1/3に削られ、日本海側の僻地である「萩」に押し込められてしまいます」

「恨みを持つでしょうね」

「毎年正月に家老が藩主に「今年は公儀(幕府)を討ちますか?」と尋ねるのが最初の儀式だったそうです」

「薩摩の方は,どうだったのですか?」

「島津家は肥後や博多に持っていた直轄地は失ったものの、ほぼ本領は安堵されました」

「長州とは、随分違った扱いだったのですね」

「幕府は島津家の武力抗戦の構えが怖かったのと、2年位にわたる幕府との交渉もあって本領が基本的に安堵されたのです」

「ただ、外様としての扱いを永年にわたって受けたことの恨みみたいなものはあったのでしょ」

「幕府は外様の財力を削るため、河川の改修などの普請をたびたび命令していました。財政的に厳しい状況に追い込まれる中で、幕府に対する恨みを募らせていったと考えられます」

「人の恨みというのは、怖いですね。ここからが本論です ↓表紙写真は「スペースシップアース」提供です」
怨念が育てた倒幕への執念
薩長の幕末の行動を見ていると、「新しい日本を作るための高潔な理念」によって動いているのではなく、多分に“徳川幕府を権力の座から引きずり下ろす”という目標だけで動いているところがありました。「積年の怨念」と言いますが、関ケ原から始まって、その後の様々な仕打ちもあり、積もり積もって二百数十年。城下の武士たちに恨み節が受け継がれていったと思われます。長州、薩摩の幕末の行動を見ると、そのように思ってしまいます。
薩摩藩、ならびに長州藩の武士たちは、いつかどこかでという思いで、経済力を上げる努力を続けました。例えば、長州藩などは領地を削られたため、石高は112万石から36万石と約3分の1に激減しました。普通なら家臣のリストラをするところですが、それをせず全員を新しい任地の萩に連れて行きました。萩は三方を山に囲まれ、前は海という狭い土地です。ここに100万石時代からの大量の家臣団が押し寄せたため、住む土地がまったく足りません。狭い萩の城下町に密集して住みつつ、周辺の未開の山林を自ら切り拓き、新田開発と特産品作りに藩と家臣が一体となって取り組んだのです。米の増産はもとより、塩、紙、ロウソクといった特産品の開発と生産など、武士も農業、副業をして日々働き、その結果、幕末には実質的な経済力が100万石近くまで回復していたのです。
ただ、問題なのは、その動機です。恨みを晴らすという目標のために、歯を食いしばって努力をするということなので、その努力自体は驚くべきものでした。しかし、その背景には藩の存亡や徳川政権への対抗意識が色濃く存在していました。そして、そのことを思い詰めれば詰める程、視野が狭い人間を大量生産することになります。関ケ原で生まれた対立が時空間を越えて別の対立と破壊を生み、薩長が政権を執ったことにより、日本全体が狭い鳥かごのような空間に押し込められたのです。権力を集中させる国家設計は、多様な地域社会の自治や文化の発展を抑制する方向へ向かったと私は考えています。先の敗戦まで迷走を重ねた大きな原因です。

(「Instagram」)
薩長同盟が目指したもの
1866年1月、京都の小松帯刀邸で薩長同盟(全6箇条の覚書)が結ばれます。両藩が一致していた問題意識は以下の2点です。①長州藩の「生存権」の確保(対幕府への共同防衛):当時、長州藩は「朝敵」として幕府から2度目の征伐(第二次長州征伐)を受け、武力で滅ぼされようとしていました。薩摩もまた、次は我が身という危機感がありました。まずは、幕府の暴走を止め、お互いが生き残るために協力しようと考えたのです。②徳川の統治体制の拒絶:幕府がすべての権力を握り、外様大名を敵視する政治体制をこれ以上は認めないという点で、関ヶ原以来の怨念も含めて一致しました。
この薩長同盟を結んだ時点で、両藩が目指していた「幕府の次の政治体制」はそれぞれ異なっていますが、中央集権の合意はありませんでした。①薩摩藩(西郷・大久保)の青写真 ➔ 「雄藩連合(諸藩連合型の分権国家)」: 彼らは徳川家を完全に滅ぼすことまでは考えていませんでした。彼らが理想としたのは、天皇(シラス)のもとで、徳川家も一大名として残しつつ、薩摩・長州・土佐などの有力な外様大名が議会を作って合議で国を動かす、一種の「連邦制・地方分権国家」でした。②長州藩(木戸)の青写真 ➔ 「より急進的な尊王攘夷」: 彼らは徳川家を完全に排除した朝廷中心の政治を望んでいました。しかし、それがどのような制度(中央集権か分権か)になるかという青写真はありませんでした。
薩長連合が結ばれた時点では、「中央集権国家をつくる」という合意は存在しなかった、というのが史実に基づいた客観的な評価になります。そして、坂本龍馬が描いていた未来像は「船中八策」で示されていますが、「議会政治(公議政体)」であり、中央集権国家ではありませんでした。それなのに、どうして中央集権国家の建設に向かって行ったのでしょうか。

(「富喜丸くん日記」)
公議政体から中央集権へ――維新政府はなぜ変質したのか
大政奉還(1867年10月)の後、『五箇条の御誓文』が示されます。その第一条は「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とあり、天皇(シラス)を頂点に戴き、諸藩の代表が対等に話し合って国を動かす「地方分権的な合議制国家(公議政体)」を想定したものでした。この『御誓文』は戊辰戦争の最中に、居並ぶ諸侯の前で天皇によって読み上げられたので、諸侯たちの中には、新しい日本に夢と希望を抱いた人もいたのではないかと思われます。
そしてこの時点では、旧幕府側も東北の諸藩(会津藩や仙台藩など)も、新しい「公議政体(諸藩連合)」に参加する権利を持つ仲間でした。しかし、薩長の本音は違いました。話し合いで平和裏に新政府をつくれば、400万石の領地を持つ徳川家が議会の圧倒的多数になり、薩長はその他大勢の地方勢力に埋没して、再び苦難の道を歩むかもしれないという猜疑心が彼らを襲います。
どうすれば良いのか。幕府軍を動かすことを考えます。江戸の薩摩藩邸を使って以下のような凶悪なテロ・犯罪行為を組織的に引き起こしました――無差別な辻斬りと強盗、江戸城への放火といった薩摩藩浪士に乱暴・狼藉事件。徳川慶喜は「討薩表(とうさつひょう:薩摩を討つという宣言書)」を掲げ、京都へ向けて軍を進めることを許可します。そして、京都へ向かって進軍してきた旧幕府軍を、薩長軍はイギリスから購入した近代兵器で迎え撃ちました。これが戊辰戦争の初戦である「鳥羽・伏見の戦い」です。この戦いで大義名分を得た薩長は朝廷の逆賊というレッテルを幕府に貼って江戸に向かって総攻撃のための進軍をします。その総攻撃の直前、勝海舟と西郷隆盛が直談判を行い、最悪の流血事態を避けるために行われたのが「江戸無血開城」です。
ここで戦いを止めて、諸藩に新生日本のために共に協力し合おうと呼びかけることができれば、薩長は長く日本の歴史の中にその栄誉ある地位を刻み込むことができたかもしれません。しかし、彼らは逆にここから「暴走」を始めます。会津藩も朝敵であるということで、見せしめのような徹底的な破壊と虐殺(少年兵の白虎隊の悲劇や、遺体の埋葬禁止など)を行い、東北諸藩(奥羽越列藩同盟)を武力でねじ伏せ、それは函館戦争まで続きます。
徳川家の天領(直轄地)や、敗北した東北諸藩の領地の多くは新政府の管理下に置かれ、薩長の資金源となりました。明治新政府の重要なポスト(大臣、官僚、軍の幹部)の多くは、薩長の出身者によって占められることになりした。天皇の権威を隠れ蓑にしながら、実質的に日本を支配したのは、徳川に代わった「薩長という新たな独裁者」に過ぎなかったのです。
こうして誕生した藩閥政府は、1871年に廃藩置県を断行しますが、それによって約300藩が担ってきた自治の仕組みは解体され、中央政府が全国を直接統治する国家体制が成立しました。筆者は、この制度転換こそが、日本の地方自治や地域文化の自立性を弱め、その後の国家主導型社会の出発点になったと考えています。「広く会議を興し」という御誓文の言葉はどこへやら、地方の意見を聞く議会(国会)の開設はそこから20年以上も引き延ばされました。地方の特色ある文化や伝統、武士たちの誇りはすべて東京の中央官庁によって管理・去勢され、「地方が文化を生み出せない、息の詰まる画一的な暗黒時代」へと突き進むことになります。
明治になって戦争に次ぐ戦争の時代になり、日本的な文化を生み出すことを忘れた国になってしまいました。実際に我々が日本的なものとして感じる文化、例えば、祭りや相撲、歌舞伎、着物といったものは殆どすべて江戸時代までに生み出されたものです。そして、この中央集権的な構造は、戦後も制度を変えながら受け継がれ、現代日本にも少なからぬ影響を及ぼしているのです。

(「PIXTA」)
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