
「「和を以て貴し」は知っていますよね」

「聖徳太子の十七条憲法ですよね」

「問題なのは、そこで止まっていることです。聖徳太子はナショナルゴールとしての「和」を提示しています。つまり、和の国を日本は目指すべきだと思い、そのつもりで十七条憲法を制定したのです」

「そこまで深く考えたことはありませんでした。役人としての心得なので、皆で仲良くしなさいということを書いた憲法だとばかり思っていました」

「十七条憲法をよく読むと、天皇もしくは為政者に対するメッセージが書かれています。役人としての心得として定めたものではありません。むしろ、天皇もしくは為政者の心得を示したものです。先入観で読むので、間違えるのです」

「要するに、和の国をつくるために、天皇もしくは為政者はどのような心得でいるべきかを書いたものなんですね」

「そこに示されている国家観は家族主義的国家観です。一つの家族のようにまとまることを目標として掲げますが、理念・考えは制度をつくることによって実現します。地方分権制と権威と権力の分離原則を組み入れることによって、和の国が実現すると天武天皇は考えたのです」

「どこからシナリオが狂い始めたのですか?」

「ズバリ言うと、江戸時代です」

「ここからが本論です ↓表紙は「nippon.com」提供です」
関ヶ原の「勝者と敗者」が幕末を生んだ
江戸の幕藩体制というのは、関ヶ原の戦い以降に臣従した外様大名を江戸から遠い九州・四国・東北などの辺境に配置し、江戸周辺や東海道などの重要拠点、主要都市(京都・大坂・長崎など)は、信頼できる親藩や譜代大名で固めるという、ある種差別的な制度でした。特に問題なのは、いわゆる「外様大名封じ込め策」とも言うべき敵視政策です。これは家康の遺訓として、代々の将軍に受け継がれていきます。それがあったから260年の長期政権を維持できたという意見もありますが、「和の国」日本にとって相容れない政策であったことは確かだと思います。
「天下普請」というのは、外様大名に城や河川の改修をさせることです。巨額の費用を大名側に負担させることで、軍資金(財力)を強制的に消耗させ、反乱を起こす余裕を奪う強力な経済的規制策でした。有名なものとして「宝暦治水事件」(1754~55)があります。工事の舞台は、現在の岐阜県・愛知県・三重県にまたがる木曽三山の流域です。頻繁に大洪水が起きる日本屈指の難所であり、その分流・治水工事を命じられたのですが、様々な嫌がらせが入りました。
動員された藩士は約1,000名です。工法の変更を命じられたり、完成部分のやり直しを命じられたりしたという記録も残っています。さらには、地元産の良質な材料を使わせてもらえず、材料を鹿児島から運ばざるを得なかったなど、様々ないやがらせが何回も行われました。薩摩藩士たちの間から「幕府と一戦交えるべき(倒幕)」との声まで出る始末、そして抗議の意思を示したいということで藩士51名が切腹、さらに工事終了後には現場責任者が多くの犠牲を出したということで割腹自殺をしました。
この事件は、藩内において悲劇として長く語り継がれ、薩摩藩内には徳川幕府に対する怒りや敵対心が渦巻くことになりました。長州藩もそうですが、結局、そういった反幕府感情が幕末の諸条件の中で沸点に達し、倒幕のエネルギーとして現実の歴史を動かすことになったのです。徳川幕府は外様大名に対して常に敵視政策をとりました。しかし、元を辿れば関ケ原の戦い、たった1回の敵味方の問題をいつまでも引きずった統治を続けたことになります。どこかのタイミングで外様藩と「和解」をして、新生日本を作っていくために大同団結をしていれば、また違った歴史が展開したと思われます。為政者の器量が狭かったが故に、恨みが増幅して様々なところに飛び火してしまい、日本のかたちが崩れるきっかけとなってしまったのです。

(「White Wind 歴史館」)
尊王攘夷はなぜ倒幕のスローガンとなったのか
幕末になると、尊王攘夷思想が急速に広まりました。攘夷というのは、外国勢力を撃つという意味です。天皇を中心にまとまろうという極端なナショナリズムが知識人の間で流行しますが、反幕府勢力はそれを「幕府を攻撃するための大義名分(スローガン)」として利用します。実際に14代孝明天皇は外国勢力に対して嫌悪の念を抱いていた方で、しばしば幕府に攘夷を迫っていました。反幕府勢力は、「朝廷(天皇)が嫌がっている外国と勝手に条約を結んだ幕府は不忠である」と責め立てたのです。
この政治闘争が極限に達した結果、生まれたのが「5月10日」の約束です。14代将軍・徳川家茂は、京都の朝廷から「いつ外国を追い払うのか」と激しく迫られました。もし「できません」と言えば、将軍としての正当性を失い、倒幕の口実を与えてしまうかもしれないと考えたのかもしれません。窮した幕府は、「1863年5月10日をもって攘夷を決行します」と、実現困難な約束(期限)を朝廷に提示して、その場をしのぎました。幕府の計算では、「各藩に通達だけは出すが、実際にはどこも動かないだろう」と高を括(くく)っていました。
ところが、その攘夷を長州が実行してしまったのです。その詳細は前に書いた通りですが、幕府の権威を落とすチャンスと捉えた長州藩は、約束の5月10日になった瞬間に下関で外国船を砲撃したのです。英・仏・蘭・米など列強の反撃は想定外だったかもしれませんが、そのことで当時の長州藩の最高幹部や、現場で戦った高杉晋作らは、「西洋の科学技術と近代兵器には、精神論(攘夷思想)だけでは逆立ちしても勝てない」という現実を学ぶ機会になりました。これが文明開化に間接的に繋がっていったと見れなくもないと思われます。
薩摩藩が起こした生麦事件も、もしかしたら幕府を困らせるという意図があったのかもしれません。幕末は薩長を中心に、謀略、陰謀、密議さらには暴力を繰り出してのゲリラ的な政権奪取でした。権謀術策を使ってまで倒幕に向かわせたのは、徳川幕府による彼らへの長年の仕打ちによるものです。因果は巡ると言います。そして、歴史は終わりのない野球ゲームのように続いていきます。結果さえ良ければ手段は選ばないという「結果至上主義」で権力を握った薩長のDNAは、そのまま明治藩閥政府へと受け継がれていくことになるのです。

(「You Tube」)
薩長政府はなぜ西洋国家を目標にしたのか
薩長土肥と言いますが、最終的に権力を握ったのは薩摩と長州です。幕府に最も虐げられていた藩が権力を握ったため、下の表に示した通り、反幕府的な政策になりがちでした。薩長同盟の内容を見れば分かるように、理念で一致したのではなく、倒幕で一致しています。そこが最終目標だったので、実際に倒幕した後の具体的な日本の針路を指し示すことが出来ませんでした。そこで新政府首脳が選んだのは、欧米列強の国を見学することだったのです。
| 項目 | 江戸時代 | 明治時代 |
| 天皇 | シラス者 | 総覧者という名のシンボル扱い |
| 国家体制 | 地方分権 | 中央集権 |
| 貿易 | メンバー限定貿易(オランダ、中国、朝鮮) | 開国 |
| 文化 | 和風文化 | 西洋文化 |
岩倉使節団として有名ですが、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文といった新政府の中心人物を含む総勢107人の団体が、1年10か月にわたってアメリカ、ヨーロッパ諸国などを中心に12カ国を歴訪しています。彼らの問題意識は、日本の今後の歩むべき方向にあったと思われます。本来なら、国内の主要都市も含めて、日本の各地をつぶさに周り、各藩が培ってきた統治や産業、地域社会の実情を把握したうえで、新国家の制度設計を行うべきだったのではないでしょうか。“徳川によって統治されていた日本”という意識が強かったのでしょう。遠ざけたいという意識が心理的に働いたのだと思われます。
岩倉使節団は欧米だけを歴訪したと思われがちですが、帰途にセイロン、シンガポール、サイゴン、香港に立ち寄っています。それらの地での様子を描いた報告が遺っていますが、蔑視観が根底に流れています。西洋文明に感化された旅の最終行程であったため、大きなギャップを感じることになったでしょう。欧米文明への強い憧れとアジアへの距離感が、この頃から新政府首脳の間で形成され、それが後の「脱亜入欧」という思想へと結実していったのではないでしょうか。

(「国際こども図書館」)
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