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和の国から大日本帝国へ (その4) ―― なぜ中央集権国家への道を選んだのか / 「公議所」と小栗上野介プランから読み解く明治国家の転換点

  • 2026年7月30日
  • 歴史
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女性

「実は、ずっと不思議に思っていたことがあります」

「それは、何?」

女性

「なぜ、薩摩、長州、土佐といった外様大名が幕府を倒そうなどと思ったのかな、ということですが、前回のブログで謎が解けました」

「どうして倒すことができたのか、ということについては不思議に思わなかったのですか?」

女性

「バックにイギリスがついていたからですね。だから、勝てたのですね。成る程と思いました」

「幕府側にはフランスがついていたのですが、指揮官の丹力の違いだと見ています。肝心の慶喜公が政権を投げてしまったのです」

女性

「それでも、最後まで抵抗した人たちがいたのでしょ」

「函館戦争ですね。榎本武揚が有名ですが、幕府の軍事顧問団のフランス陸軍大尉のブリュネ(Jules Brunet)は本国に退職願(実質的な脱走届)を送り、フランス軍人としての輝かしいキャリアをすべて捨てて、旧幕府軍(榎本武揚ら)と行動を共にすることを選んだのです」

女性

「そういう裏話があったのですね。結局、どうなったのですか?」

「ブリュネは榎本武揚の艦隊とともに北海道(函館)へ渡り、五稜郭を拠点に迫り来る新政府軍(薩長)を迎えて、武士たちと共に最前線で戦いました。敗北が決まる直前、榎本武揚らは彼を死なせる訳にはいかないと思い、彼を説得してフランス軍艦へ避難させたのです。実は、この実話が元になって作られた映画がトムクルーズ主演の「ラストサムライ」です」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「日本史事典.com」提供です」

 「万機公論」から中央集権への転換

薩長同盟を結んだ時点では、中央集権国家の構想はありませんでした。さらに、坂本龍馬の「船中八策」の中にもそれはありませんでした。それにも関わらず、明治に入って急に中央集権国家の建設が始まりました。これは何故でしょうか。そもそも、日本は平地が少なく、山地が約70%を占め、川が急流で道を遮断するように流れ、本州、北海道、九州、四国に分かれ、島の数は1万4千もあります。言葉ですらまとまっていない時代です。ある意味「無理筋」な中央集権国家をどうしてつくることになったのでしょうか。

一言で言えば、近代化を急ぐ国内外の情勢が、新政府を中央集権国家へと押し流したのです。新政府の発足当初、実は“諸藩の代表者”の議会(公議所・集議院)が実際に作られました。五箇条の御誓文の中の「広く会議を興し、万機公論に決すべし」の具体化でした。しかし、そこでの議論は新政府の指導者たちを失望させるものでした。諸藩の代表者たちは、自藩の利益や旧来の慣習に固執し、国家全体の近代化(例えば、身分制の廃止、キリスト教禁令の解除、近代的な税制の導入など)に猛反対しました。このような状況を見て、「公論」に任せていては、いつまで経っても進展せず、欧米に対抗できる国づくりが間に合わないと、大久保利通らは判断したのです。

「古い時代しか考えていない諸藩に政治を任せるより、時代の変化を見通した者が独善的に引っ張る方が国家のためだ」という考えが頭をもたげ始めたのでしょう。さらに、彼らは自分たちの処遇を恐れたと思います。仮に、シラス者の天皇の下で実務を担うウシハク者を諸藩の代表者による選挙や公論で民主的に選ぶ仕組みを作ったとしても、元外様藩ということで、かつての時代のように政治的に排除もしくは不利な扱いを受けるのではないか、そうした懸念を抱いた可能性も否定できません。

(「中学受験ナビーマイナビ」)

 小栗上野介プランがなぜ採用されたのか

そのような時に出会ったのが幕府の勘定奉行であった小栗上野介の国家プランです。江戸無血開城の際、新政府は幕府の勘定奉行所や外国奉行所が持っていた外交・財政・軍事に関する膨大な機密書類をそのまま手に入れました。また、小栗の下で実務を担っていた官僚・技術者の多くが新政府に雇用され、小栗の構想を直接新政府に伝えました。

小栗がフランス公使ロッシュと共に描いていたプランは、以下のようなものでした。①郡県制の導入:全国の「藩」を廃止し、中央から官僚を派遣して統治する。②武士の解体と常備軍:各藩の私兵(武士)を廃止し、フランス式の近代的国軍を作る。③中央集権的財政:全国の徴税権を徳川中心の中央政府に一元化する、といったものですが、①は「廃藩置県」、②は「徴兵令」、③は「地租改正」そのものです。司馬遼太郎は「薩長は小栗ら幕府のファーザーズが作った基礎工事の上に乗っかっただけ」と評しているように、結果的に、小栗上野介のプランを真似て全土を「一つの法、一つの政府」で統治する中央集権国家に舵を切ることになるのです。

仮に小栗プランを公議所での議題に上げたとしたら、どうなるでしょうか。新政府側から帯刀禁止の提案がなされたことがありましたが、猛反発があり、圧倒的多数で拒絶されました。要するに、公議所に集まった各藩の代表者たちは、武士の身分と藩の利益を守り、藩主(知藩事)に仕える武士として派遣されてきています。そのような彼らにとって小栗のプランは、自分の藩を消滅させ、武士たちを全員失業させるもので、到底受け入れ難い構想に思うでしょう。受け入れられることはなかったと思われます。「公議所での議論では、武士の特権も藩も永遠に無くせない」と悟り、①公議所という議会を実質的に機能停止(骨抜き)にし、②「廃藩置県」を電撃的に断行する事を行いました。そして、そのような政策を進める中で有司専制(ゆうしせんせい)に傾斜していったのです。

(「じゃらんnet」)

 植民地化の危機が本当にあったのか

欧米列強による植民地化の危機、ということが何かにつけて言われます。清やインドが植民地支配のターゲットとされたので、やがてその狙いは日本にも来るはず。それに抗うために中央集権国家をつくる必要があった、という理屈が語られてきました。本当にそうでしょうか。

確かに、幕末以来、フランス公使ロッシュは徳川幕府を、イギリス公使パークスは薩長を支援し、一時は「代理戦争」の様相すら呈していましたが、少なくとも幕末の段階では、直接統治よりも貿易上の利益確保を優先していたと考えられます。幕末の日本は、幕府と各藩(薩長など)がそれぞれ勝手に外国と交渉し、武器を買い、時には外国人を襲撃する(生麦事件や下関事件)という、外国から見れば「誰と交渉すれば安全が担保されるのか分からない国」でした。

しかし、明治新政府が「中央集権化」を進め、全土を「一つの法、一つの政府」で統治し始めると、列強にとっては「中央政府(明治政府)とお付き合いすれば、日本全土の安全と貿易権益が保証される」という非常に好都合な状況が生まれたのです。わざわざ軍隊を派遣してリスクを冒し、植民地支配という高コストな統治をしなくても、中央政府を条約で縛っておくだけで十分ビジネスができるようになりました。植民地支配と簡単に言いますが、住民の抵抗もあり、リスクもコストもかかります。武力介入の必要性が消滅したのです。

ところで、フランスが日本から手を引いた最大の理由は、本国の存亡に関わる大敗北です。幕府に肩入れしていたフランス皇帝ナポレオン3世は、1870年に始まった「普仏戦争(フランス vs プロイセン・ドイツ)」で完敗し、自身も捕虜となって帝国が崩壊しました。さらに国内では「パリ・コミューン」という激しい内乱が起き、日本どころではなくなりました。大混乱に陥ったフランスは、幕府を熱烈に支援していた公使ロッシュを更迭(解任)し、日本から手を引いたのです。

そしてイギリスですが、世界帝国の経営はすべて「費用対効果(コスト)」で計算されていました。人口も富も桁違いに大きい清(中国)やインドを支配することは経済的にもメリットがありました。しかし、日本は「地形が険しくて征服するのに莫大な軍事コスト(兵力と金)がかかる割には、中国やインドほどのリターン(富)がない国」でしたので、同じように見る訳にはいきません。深入りを止め、条約による経済的な実利だけを取る方針へと切り替えたのです

この後、明治政府はイギリスやフランスから距離を置くようになり、軍事や法制度の手本を「普仏戦争でフランスを破ったプロイセン(ドイツ)」へと急激にシフトさせていきます。手本とする国をプロイセンに代えたことが、後の大日本帝国憲法や日本の軍国主義に大きな影響を与えることになりますが、それについては次回にしたいと思います。

(「You Tube」)

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