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軍国主義はどこから始まったのか (その3) ―― 昭和の暴走は、明治維新が蒔いた種だった / 統帥権という「パンドラの箱」が開いた瞬間

  • 2026年6月6日
  • 歴史
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女性

「前回のブログで話題にした月曜会事件ですが、まったく知りませんでした」

「無理もないと思います。殆ど闇の中に葬り去られようとしている事件ですからね」

女性

「外征派の人たちの名前は、聞き覚えがありますが、内憂派と言われる人たちの名前は初めて聞きました」

「彼らは四将軍と言われていたようです。谷は土佐藩、鳥尾、三浦は長州藩、曾我は柳河藩(福岡県柳川市)です。谷、三浦は西南戦争で武功をあげた人です。鳥尾は高杉晋作の奇兵隊に加わっていました。曾我は長崎で洋学を学び航海術を身に付けて新政府軍に加わった人です」

女性

「ある意味、良識派と言っても良い人達ですね」

「というか、歴史は一直線に進むものではなく、必ず揺り戻しというか、アンチの力が働きます」

女性

「そのアンチの力が常に弱かったと思うのですが、それはどうしてですか?」

「権力を握った者たちが、徒党を組む動きをします。そして、常に反対派を力で排除しようとします。特に、長州藩はそういう傾向が強いです」

女性

「何故ですか?」

「何故でしょうね。身内で固まろうとしますし、権力志向が強いですね。土地柄の問題もあると思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙写真は「草の実堂」提供です」

 山縣有朋が残した「軍国主義の遺伝子」

山縣有朋が築き上げた制度とイデオロギーは、のちの青年将校たち、すなわち二・二六事件を起こした昭和の軍人たちへと受け継がれていきます。昭和の青年将校や関東軍の参謀たち(石原莞爾など)は、山縣ら藩閥勢力の政治的利権や腐敗を激しく憎み、それを打倒しようとしました。彼らが掲げた「昭和維新」とは、まさにそのための運動でした。

しかし皮肉なことに、彼らが思想的支柱として仰いだのは、山縣と同じく吉田松陰の思想でした。尊皇攘夷、至誠、そして対外膨張という理念です。彼らは「藩閥政治を打倒する」と叫びながら、実際には山縣が植え付けた「外征こそが日本の生きる道」「軍は天皇直属であり、政府の統制を受けない」という発想を、そのまま受け継いで決起したのでした。

明治の長州閥が、自らの政治的正統性を支えるために神格化し、制度化した「松陰思想」と「軍の聖域化」。それが半世紀後、昭和の時代になって制御不能となり、日本を破滅へ導く巨大な爆発を引き起こしたのです。そこには、歴史が持つ恐ろしい因果律、すなわち「自ら蒔いた種は、いずれ自ら刈り取ることになる」という現実を見ることができます。

(「note」)

 ロンドン海軍軍縮条約と統帥権という「パンドラの箱」

大正デモクラシーと第一次世界大戦後の国際協調の流れの中で、浜口雄幸内閣は国家財政の再建を目指し、海軍力を制限するロンドン海軍軍縮条約(1930年)に調印しました。これに対して、軍部や野党、右翼勢力が一斉に持ち出したのが「統帥権干犯」という論理でした。彼らは、「天皇の統帥権(軍事指揮権)を、内閣が勝手に条約締結によって侵害した」と主張したのです。しかし、この事件の本質は別のところにありました。軍部はこの時、「統帥権」という概念を持ち出せば、議会も内閣も超越して、自らの意思を国家意思として押し通せることに気付いたのです。ここで軍部は、自らを政治から独立した特別な存在として位置付けることに成功しました。

その後、満州事変を主導した石原莞爾らは、この統帥権を事実上の政治的武器として用い、その行動原理として掲げたのが、明治初期以来の「対外膨張」という国家理念でした。現在の歴史教科書では、昭和初期の軍部の暴走を突発的で異常な出来事として描く傾向があります。しかし、その種はすでに明治国家の成立過程に蒔かれていたのです。

明治六年政変(1873年)、月曜会事件、軍部大臣現役武官制(1900年)といった制度形成を通じて、軍部は「松陰的外征思想」と「政治から独立した統帥権」を獲得しました。そして、昭和恐慌という社会不安の中で、それが一気に噴出したのでした。この流れを見ると、昭和の破局は偶発的な事故ではなく、「戦争を前提とした国家設計」が必然的にたどり着いた帰結であったとも考えられます。作家の広瀬隆氏は、『日本近現代史入門』(集英社、2016年)の中で、「明治維新によって形成された財閥と国家権力の結合が、軍国主義を育てた」と述べています。

軍国主義の種は、すでに明治維新期に蒔かれていたのです。では、その種は、どのような時代背景の中で生まれたのでしょうか。

(「マイナビニュース」)

 明治維新が生み出した「軍事国家」という発想

才筆家として知られた福地源一郎(1841~1906)は、「明治維新とは、政権が幕府から薩長に移っただけであり、薩長を中心とする新たな幕府が誕生したに過ぎない」と評しました。この言葉は、維新政府の本質を見事に言い表しているように思えます。

新政府の誕生に期待した農民たちも、ほどなくその実態に気付きます。歴史学者・青木虹二氏の『百姓一揆総合年表』によれば、明治2年から4年までのわずか3年間に発生した百姓一揆は300件を超え、とりわけ明治2年(1869年)は110件以上と、日本史上でも最多水準を記録しました。

新政府の担い手の多くは、幕末の倒幕運動に身を投じた下級武士たちでした。彼らは近代国家論や体系的な政治学を学んだわけではなく、自らの体験を基礎に国家像を描いていったと考えられます。彼らにとって決定的だったのは、薩英戦争(1863年)や四国艦隊下関砲撃事件(1864年)で、西欧列強の圧倒的な軍事力を目の当たりにしたことでした。「強い武器を持たなければ国は滅びる」――この体験が、彼らの国家観を大きく方向付けたのでしょう。

そして、西洋から導入した最新兵器によって戊辰戦争に勝利し、さらに西南戦争で旧士族軍を打ち破ったことで、その確信は一層強まります。強力な軍隊を持てば、日本も列強に並び立つことができる。さらには、吉田松陰が構想したとされる「琉球を領有し、朝鮮を収め、満州を制し、中国を圧し、ルソンを奪う」という対外膨張の理想も実現できるかもしれない。そう考えるようになったとしても、不思議ではありません。しかし、その夢を実現するためには莫大な資金が必要でした。

ここに、軍事力への憧憬というイデオロギーと、資本を持つ商人・実業家との結合が生まれます。軍国主義とは、単なる軍人の暴走ではありませんでした。それは、「軍事力」「資本」「国家理念」が結びついて形成された、明治国家そのものの構造的な性格だったのです。

(「エキサイト」)

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