
「今回も軍国主義の源流を辿っていきたいと思います。「主義」が急に形になって民衆を巻き込むはずがありません。昭和になって軍国主義が起きたという従来の説明は、どう考えても不自然です」

「私は「富国強兵」のスローガン自体が誤りだったような気がしています」

「私も最初の一歩を間違えたと思っています」

「そこが誤りとなると、明治維新そのものが間違いと言われる恐れが出てきてしまいますよ」

「それを恐れて、戦前の歴史を前半と後半に分けたのではないかと思います」

「前半を「聖域」にしたかったのですね」

「明治維新によって近代化を実現し、日清、日露戦争で勝利をして世界で確たる地位にのし上がったというサクセスストーリーを定着させたかったのでしょう」

「授業では、そのように習った覚えがあります」

「それらの戦争は日本にとって切羽詰まったものではありませんでした。だからこそ余計にそのような理屈で説明する必要があったのかもしれません」

「中国や韓国が歴史認識と言っているのは、その辺りのことなんでしょうね」

「そうですね。そして、その過程で軍部独裁体制が少しずつ作られていきます。今回はその辺りのことについて書きたいと思います」

「ここからが本論です ↓表紙写真は「x.com」提供です」
外征派が権力闘争を制する
大日本帝国陸軍における「月曜会事件」は、明治時代中期(1880年代)の陸軍内で起きた深刻な権力闘争であり、軍の近代化(ドイツ化)と「外征派」による主導権確立を決定づけた重要な歴史的転換点です。この闘争は、山縣有朋や大山巌らを中心とする陸軍主流派(薩長藩閥・外征派)と、近代化の方向性に異を唱える反主流派(四将軍派・内憂派)の主導権争いでした。
| 派閥 | 主な人物 | 思想・国防方針 | 目指した軍制 |
| 外征派 | 山縣有朋、大山巌、桂太郎、川上操六 | 外征型国防 欧米列強や清、ロシアに対抗するため、外征(海外出兵)できる強大な近代軍を目指す。 |
ドイツ(プロイセン)式 参謀本部の権限を強化し、迅速に動員できる師団制への移行を目指す。 |
| 内憂派 | 谷干城、鳥尾小弥太、三浦梧楼、曾我祐準(四将軍) | 専守防衛(内憂型) 国内の治安維持や国土防衛を重視。海外への軍事膨張(外征)は国力を疲弊させると反対。 |
フランス式・自由主義的 長年の伝統であるフランス式軍制の維持や、藩閥(薩長)による軍の私物化に反対。 |
月曜会は、1881年(明治14年)に陸軍の若手・中堅将校(秋山好古なども所属)によって結成された兵学研究団体です。毎週月曜日に集まって最新の軍事知識を議論していたため、この名がつきました。最初は純粋な勉強会でしたが、次第に陸軍改革(ドイツ式への移行)を強硬に進める山縣ら主流派に不満を持つようになります。そこに目をつけた「四将軍派」が接近し、月曜会は反主流派の政治的結社・牙城へと変貌していきました。
1882年(明治15年)頃から本格化したこの対立は、数年間にわたる激しい権力闘争(陸軍紛議を含む)へと発展します。主流派の桂太郎らは、ドイツからメッケル少佐を招聘し、陸軍の大改革(参謀本部の独立、鎮台から師団への改編)を強行します。これに対し、四将軍派と月曜会は「藩閥による専制だ」として激しく反発・抵抗しました。主流派は、反対派のトップである四将軍を左遷・退役に追い込むなどして、上層部から徐々に切り崩していき、最終的に1889年(明治22年)2月、政府の命令によって月曜会は強制解散させられました。

(「JBpress」)
月曜会事件がもたらした歴史的影響
月曜会事件での主流派の完全勝利は、その後の日本の運命を大きく左右しました。国内防衛(内憂派)を唱える勢力が一掃され、陸軍の方針は「大陸進出を見据えた外征型」へ一本化されました。ドイツ式を模範とした近代的な「師団制」への移行が完了し、強力な軍隊が形作られました。この事件で確立された外征主義と軍事組織が、その後の日清戦争(1894年)や日露戦争(1904年)を主導していくことになります。
軍の政治的一体化を進めるための措置であった一方で、藩閥主流派による軍の独占と、のちの軍部暴走の土壌を作ることにもなったじつに根深い事件です。結局、長州閥組が勝利をしますが、彼らが勝利をしたのは、「明治六年の政変」で多数派を形成したことが大きく影響しています。
山縣有朋(長州出身)が首相に就任し、陸軍内および国政での権力を確立していく過程は、日本が「近代国家」から「軍国主義国家」へと傾斜していく決定的な転換期でした。山縣は1889年(明治22年)に初代の内閣総理大臣(第1次山縣内閣)に就任します。その翌年の第1回帝国議会で、彼は有名な「主権線」と「利益線」の理論をぶち上げました(下の図参照)。「主権線」とは、日本の国境(国土)そのものであり、「利益線」とは、日本の安全保障に直接関わる隣接地域(具体的には朝鮮半島)を指します。
山縣は「日本の独立を維持するためには、主権線だけでなく利益線(朝鮮半島)も軍事力で防衛・確保しなければならない」と主張しました。この理論が、のちの日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)へと突き進む外交・軍事方針の決定的な大義名分(外征主義の正当化)となったのです。この「利益線」を現在主張しているのが中国です。やったらやり返される、やり返されないためには、誠意ある相手との話し合いがどうしても必要なのです。

(「ameblo.jp」)
山縣閥(山縣系官僚・軍人)の形成と軍国主義化
山縣は、議会(政党)や国民が軍事に介入することを激しく嫌いました。そのため、首相や元老としての権力を使い、軍が政治から独立して暴走できる「制度的枠組み」を次々と完成させます。特に重要なのが、軍部大臣現役武官制(1900年・第2次山縣内閣)です。陸軍・海軍の大臣には「現役の将将(中将以上)」しか就任できないという制度です。これにより、陸軍が大臣を出さない(引き揚げる)だけで内閣を倒すことができるようになり、軍部が政府(首相)を脅かす最強の武器を手に入れたのです。そしてもう一つが、文官任用令の改正(1899年)です。政党の党員が官僚(官僚機構)に介入できないようにし、山縣お気に入りの官僚・軍人で政府を固める仕組みを作りました。
山縣は自らの後継者として、桂太郎(のちの首相・陸軍大将)や児玉源太郎、川上操六といった軍人を引き立て、陸軍内に強固な「山縣閥」を築きました。山縣が育てた桂太郎が首相の時代(桂園時代)に、日露戦争に勝利し、韓国併合(1910年)を成し遂げます。この頃には、国家予算の莫大な割合が軍事費に割かれるようになり、国家の最高目標が「軍事的な拡大」へと完全にシフトしました。
なぜ、そこまで外征に夢中になったのでしょうか。吉田松陰が獄中で著した『幽囚録』などで唱えた国防論は、当時としては驚くほど侵略的・膨張的なものでした――「急ぎ軍備を整え、蝦夷(北海道)を開拓し、琉球を領有し、朝鮮を収め、満州を拉(くじ)き、支那(中国)を圧し、ルソン(フィリピン)を奪う」。山縣は松下村塾の塾生として松陰の影響を多分に受けていました。山縣が明治天皇に松陰の遺稿を献上したという事実は、彼が単に「日本の安全保障」を守るためだけでなく、松陰の教え(ドクトリン)を国家の最高方針として天皇に共有し、実践しようとしていた決定的な証拠と言えます。イデオロギーに洗脳された男が国家権力を握って、軍部が暴走する装置を日本中に張り巡らしたのです。

(「ホリショウのあれこれ文筆庫-はてなブログ」)
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