
「歴史認識という言葉をよく中国や韓国の指導者は使いますけど、今一歩よく分からない言葉だと思っています」

「過去に遡って、どのような状況の中で戦争や紛争が起きたのか、お互いの認識を合わせることが大事だと彼らは考えているのです」

「認識を合わせることによって、どのような効果が生まれるのでしょうか?」

「例えば、事故や事件が起きた時、その発端に遡って検証をします。加害者を立ち会わたり、被害者の言動を調べたり、時には、現場検証をしたりして因果関係をはっきりさせた上で調書を作成します。歴史認識もそのように考えて良いと思います」

「共通認識というような意味なんですね。教訓にしたいということでしょうか?」

「仮に不幸な事件があったとして、それを相手がどう捉えているのか、反省しているのか、していないのかによって防御のレベルが異なります」

「最近になって、中国は日本に対して「新軍国主義」という言葉を使うようになりました。日本政府はとんでもない言い掛かりみたいな感じで対応していますが、なぜあのようなことを言い始めたのですか?」

「荒唐無稽ということで片付けてはいけないと思っています。本来なら「新軍国主義」という言葉の真意を質す必要があります。「平和友好条約」を結んでいることを忘れてはいけないと思います」

「戦前の日本は軍国主義であったことは確かです。そのことが日本にとっても不幸な結果をもたらしました。その淵源は昭和の初め頃でしょうか?」

「もっと前に遡って考えるべきだと思っています。1873年に徴兵令が制定されますが、その時期に「富国強兵」のスローガンが掲げられ、軍隊が創設されます。その後、「明治六年の政変」が起きます。それが大きな分岐点になったことは確かです」

「ここからが本論です ↓ 銅像写真は、上野恩賜公園の西郷隆盛銅像です」
軍国主義の淵源は明治国家にあり
日本の歴史教科書(中学校、高校の歴史総合・日本史探究)では、軍国主義の本格的な台頭や破滅的な戦争への分岐点を「昭和初期(1930年代)」に置き、戦前の80年を意図的に2つに区切っています。
前半は、文明開化の旗の下、近代化を進めた日本が日清戦争、日露戦争に勝利をし、さらには国際連盟の常任理事国になるなど、列強の仲間入りを果たした栄光の時代と捉えています。後半は昭和恐慌を契機として軍部が台頭し、その暴走によって戦争へと突き進んだ「失敗の時代」として説明されるのが一般的です。「司馬史観」とも呼ばれる歴史観の影響もあり、明治を「光」、昭和初期を「影」として描く歴史認識は、多くの日本人が共有しているものかもしれません。しかし、明治に成立した政権が続いているのに、途中で区切るのはどう考えてもおかしいと思います。
歴史を理解する上で重要なのは因果関係です。昭和の軍国主義を突如現れた異常現象と捉えるのではなく、明治国家が採用した制度や思想の延長線上に位置付ける視点が必要です。昭和の軍国主義とは「明治国家が内包していた外征志向や軍事優先の構造が、時代の変化の中で極端な形で表面化した結果」であったと考えて良いと思います。明治維新以降の80年間を、一つの連続した歴史として捉える必要があるのです。

(「Vecteezy」)
「明治六年の政変」に見る軍国主義の萌芽
そんなことから、1873年の徴兵令の制定による軍隊の創設、「富国強兵」のスローガンが掲げられた明治初期の時代に遡って検証したいと思います。日本の軍国主義は、天皇の権威を徹底的に利用しながら、プロパガンダを振りまきつつ、敵対的な勢力に対する無慈悲な仕打ちを徹底的に行うのが特徴です。すでにそれは戊辰戦争の際の会津藩への対応でそれが見受けられますし、軍国主義の萌芽は「明治六年の政変」以降にすでに見られます。
教科書に書かれている「明治六年の政変」についての記述は誤りです。西郷隆盛、江藤新平たち、政府を離れた人間を「征韓派」としていますが、彼らは反「征韓派」です。実際に西郷隆盛が主張したのは「武力行使」ではなく、「自分が単身で大使として朝鮮に渡り、粘り強く交渉する(遣韓使節)」ということでした。西郷は江戸城無血開城を主導し人物として知られています。士族の不満を戦争で解消しようとする周囲の強硬論を抑えようとすらしていたのです。
ちょうどその頃、岩倉使節団として洋行していた大久保利通や木戸孝允らが帰国しました。留守政府(西郷、江藤、板垣退助ら)が地租改正や徴兵令、司法改革などの重要政策を次々と実現していたことに危機感を抱いたとも言われています。このままでは自分たちの居場所(主導権)がなくなる、と危機感を抱いた長州閥や大久保らは、西郷の遣韓使節決定をひっくり返すために暗躍します。その辺りの顛末について、よろしければ、拙著『「少子化・人口減」という「第二の敗戦」』を読んでみて下さい。
そもそも西郷、江藤らが征韓派だとすると、彼らが去って、内治派が政府内に留まったのに、どうして翌年江華島事件を皮切りに朝鮮への攻撃を強めたのか、まったく説明がつかないことになります。要するに、西郷や江藤を追い出した後に、藩閥政府は彼らに対して征韓派というレッテルを貼って、自分たちの行為を正当化したのです。このように、「明治六年の政変」は単なる外交論争ではなく、近代日本の進路を左右した政治権力闘争として捉える必要があるのではないでしょうか。
試しに、AIに「「明治六年の政変」により西郷や江藤といった人物は放逐されました。その上で、藩閥政府は彼らは征韓論を唱えていたというレッテルを貼って、追い落としを正当化したのですか?」と聞いてみて下さい。

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「明治六年の政変」が生んだ近代日本の構造
江藤新平や西郷隆盛が政府を去った途端に、日本は急に好戦的になります。まず、1874年の台湾出兵です。西郷を追い出したわずか半年後、藩閥政府は自ら台湾出兵を敢行します。1875年には江華島事件が発生しました。朝鮮に対し、軍艦で威嚇し、武力を背景に不平等条約を突きつけて無理やり開国させたのです。これを見ただけでも、政府内に残ったのは武闘派であったことが分かります。
「明治六年の政変」が近代日本にとって大きな分岐点であったことは確かです。だからこそ、藩閥政府は露骨に「ウソ」で固めた史実を意識的に広めようとしたのです。結局、この政変で江藤新平(政敵)が消え、西郷隆盛(陸軍の絶対的カリスマ)が去ったことで、陸軍内で山縣有朋の地位を脅かす者は誰もいなくなりました。山縣は西郷が去った陸軍を完全に「長州閥の私物」へと作り変え、自らの権力基盤を固めることに成功します。政敵に「好戦的な征韓論者」という悪名を着せて排除し、自分たちは「冷静な近代化の推進者」として振る舞いながら、裏ではその軍事力を使って外征主義(のちの富国強兵・月曜会事件へと続く道)を突き進みました。明治六年の政変は、まさに山縣有朋ら長州閥が「勝者として歴史を都合よく書き換えた」出発点だったと言えるのです。
ここまで読み進められた方は、なぜ今まで何も訂正されず、真逆のことが言われ続けてきたのかといった疑問を持つと思います。それは、藩閥政府本位の歴史を遺すために歴史書の編纂を始めたり、東京帝国大学に「維新史料編纂局」を設置したりと、自分たちに都合の良い歴史を構築・流布するための態勢をつくっていたからです。「明治六年の政変」は、その一つの例です。大陸は様々な情報が国境を越えて入ってきますが、島国という閉ざされた空間はプロパガンダを流すにはベストの環境です。人の良い日本人たちは政府発表を真実と信じて洗脳されていったのです。

(「まなれきドットコム」)
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