
「ニホンオオカミが絶滅したことを前回のブログで話をしましたが、その大元の原因は何だか分かりますか?」

「大元の原因ですか?人里に現れるようになったからですか?」

「人里に現れて、飼育された牛や馬を襲うようになったので徹底的に駆除されたのですが、彼らは江戸時代までは田畑を荒らすシカやイノシシを追い払ってくれる存在として崇められていたのです」

「明治時代になって急に人間の敵になったのですね。何があったのですか?」

「明治以降、木材の需要や炭焼きのために、日本の山が大規模にハゲ山化していきました。これにより、イノシシもシカも隠れる場所や餌(どんぐりなど)を失い、山奥の生息数が自然と減少していき、そこにもってきて狂犬病やジステンパーといった犬の病気がオオカミたちに感染したのです」

「彼らは群れをつくるので、感染が広がりやすかったのでしょうね」

「人間による山の乱開発で彼らの食料となるイノシシやシカが少なくなってしまい、人里に下りてきて家畜(馬や牛)や人間を襲うようになったのです」

「そのため駆除されたのですね」

「その駆除も徹底していました。政府はオオカミの首に高額な懸賞金をかけたり、「ストリキニーネ」という強力な毒薬を仕込んだ餌をばらまくという方法をとったりしました」

「病気と駆除によって滅亡したのですね。生態系に影響があったのでは」

「オオカミやクマには天敵がいません。こういう存在を「頂点捕食者」と呼んでいます。森全体の生態系のバランスが自然にコントロールされる上でカギを握る存在です。これを絶滅させたので、バランスが徐々に崩れていくことになります」

「クマの出没もそういった歴史の流れの中で捉える必要があるのですね」

「ここからが本論です ↓ 表紙は「ソフトバンク」提供です」
「野生動物の反乱」はどこから始まったのか
明治の藩閥政府は、富国強兵のスローガンを掲げて、近隣諸国に対して強権的な政策を推し進めましたが、自然界に対しても強権的に臨みました。江戸時代には、綱吉政権期の「生類憐み」に関する一連の政策をはじめ、幕府・諸藩による狩猟規制や御留場の設定など、地域や時期によって様々な資源管理が行われていました。もちろん、それを現代的な意味での「自然保護政策」と呼ぶことはできません。しかし結果として、野生動物や森林資源への人間の介入に一定の制約を設ける仕組みが存在していたことは確かです。ところが、明治の時代になって森の木の乱伐、野生動物に対する狩猟の解禁が行われます。そういう人間側の事情が、様々な方面に影響を及ぼすことになります。
『野生動物の反乱(上)』(三浦慎悟)には、明治初期の大規模な乱獲について書かれています。明治初期(1873〜78年頃)、明治政府が開拓資金を稼ぐ目的でエゾシカの大量捕獲を推奨しました。シカ皮の輸出や、シカ肉を缶詰にして輸出したために、わずか数年で57万頭ものエゾシカが殺された史実が紹介されています。乱獲が続いた直後の1879年、北海道を襲った記録的な豪雪によってエゾシカは餓死などで激減し、絶滅寸前まで追い込まれ、その後政府は禁猟措置をとりますが、数が回復すると狩猟が解禁されというように、狩猟と禁猟が繰り返されることとなります。現在は、「鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(通称:鳥獣保護管理法)」によって、適正な数になるように管理している状況です。
ただ、森がその機能を維持できるならば、植物、動物、微生物の間の循環の中でそれぞれの「種」があらかた適正な数に調整されるはずです。植物が作ったエネルギーが動物へ、そして死後は微生物による分解へと渡り、最後は再び豊かな土壌となって木々を育てます。この自然が生み出したサイクルが、何百年、何千年も続く豊かな森を支えてきたのです。ところが、近代に入り、人間が森林伐採、乱獲、農地開発などによって大規模に介入をし始め、サイクルそのものが変調をきたしたため「保護及び管理」をしなくてはいけなくなってしまったのです。「野生動物の反乱」という言葉は、「人間が自然のバランスを壊した結果、増えすぎた野生動物たちが人里に押し寄せ、人間に被害をもたらすようになった現象」を言っているのです。
「野生動物の反乱」というタイトルにしたのは、「野生動物が反乱(人里への進出や農作物の破壊)を起こすのには、人間が過去にバランスを崩したという明確な理由(原因)がある」ということを人間に気づかせるためだそうです。強い警告を込めて付けられたタイトルなのです。「人間が自然をいじめすぎたせいで、めぐりめぐって今、人間が動物たちに困らされる側(反乱を起こされる側)になってしまった」という皮肉と反省を表した題になっています。私たちは、現象面だけを見て判断する傾向が強いのですが、その現象がどのような原因で起きたのか、そこまで辿って判断する必要があるのです。

(「北海道新聞 旭川支社+ななかまど」)
近代化の陰で絶滅へ追い込まれた野生動物たち
人間は過ちをする動物です。大事なことは、過ちを過ちと認め、それを総括し、今後の教訓とすることです。ところが、日本人は何故か、それを隠蔽しようとする傾向があります。すべてをオープンにして反省をする。そこから国に対しての信頼も生まれ、協力しようという気持ちが国民の中から湧き起こると思います。大事なことは、公明正大に物事を語ることです。なぜ、このようなことを書くのかというと、クマ問題でマスコミは現象面しか報道しようとしていないからです。そのため、因果関係が不明瞭で、歯切れが悪いものになっています。政府はそれに乗っかかってコメントしているだけです。コウノトリ、トキは絶滅しそうになってから慌てて保護政策を取りましたが、時すでに遅しでした。クマについても、同じ道程を辿らないためにも、今までの「失敗」を明らかにして、根本的な解決策を広く国民に呼びかけるべきです。
日本産コウノトリは1971年に野生下で絶滅しました。なぜでしょうか。江戸時代には幕府によって厳しく捕獲が禁止され、大切に守られてきた鳥ですが、明治になり規制が撤廃され、「田んぼを荒らす害鳥」として駆除が始まりました。しかも彼らの肉は大きく、市場で商品価値が高かったこと、さらに全身が白く目立って撃ちやすかったことから集中的に乱獲され、一気に姿を消していきました。これに追い打ちをかけたのが、第二次世界大戦中の「松の木の大量伐採(軍用の油を取るため)」でした。コウノトリは、高い松などの大木が重要な営巣木になっていましたので、家(営巣環境)まで完全に失ってしまったのです(菊地直樹『蘇るコウノトリ―野生復帰から地域再生へ』東京大学出版会) 。
日本の野生のトキも絶滅しています。トキの絶滅もコウノトリと同じように運命を辿っています。かつてトキは、日本に普通にいる里山の鳥でした。彼らは田の中のドジョウやカエルを捕食します。大きな鳥が田んぼをドタバタと歩き回るため、農民にとっては「植えたばかりの苗を踏み潰す害鳥」とみなされていました。しかし、江戸時代は「お上の鳥だから手を出せない」と我慢していたのです。それが明治に禁猟が解かれたため、一斉に駆除・捕獲されました。駆除だけでなく、トキには高い商品価値があったのです。トキ特有の淡いピンク色(鴇色)の羽根は、弓矢の「矢羽(やばね)」の材料や、婦人用の帽子の飾り、布団の材料として使われ、さらに輸出用として羽根が高値で取引された上、その肉は「貧血に効く薬(漢方)」として珍重され、売買されました。こうした乱獲などによってトキは激減し、1981年には佐渡に残った最後の5羽が捕獲され、日本の野生下から姿を消しました。(葉山 穫『最後のトキ ニッポニア・ニッポン: トキ保護にかけた人びとの記録』金の星社)。
それ以外に、ツル(主にタンチョウ)、アホウドリ、サギ、ウミネコ、カンムリカイツブリ、ニホンカワウソ、エゾクロテン、ラッコ、オットセイ、ガン、カモなどが乱獲によって絶滅寸前まで追い詰められています。明治期には、近代化・殖産興業を急ぐ一方で、野生動物の肉、毛皮、羽毛などが商品として国内外で流通しました。そこには政府主導の開拓事業もあれば、民間の商業的乱獲もありました。当時は今日のような生物多様性保全という発想が十分に制度化されておらず、経済的価値が資源の持続可能性より優先された面があったのです。そのため、野生動物たちが絶滅するというリスクに全くと言って良い程、気が付かなかったのです。

(「東京ズーネット」)
なぜ先人の「山を守る知恵」は継承されなかったのか
明治政府が掲げた「富国強兵」「殖産興業」には、それまでの日本が経験したことのない大量の木材が必要でした。明治の藩閥政府はそのため、江戸幕府が厳しく管理していた森林の「伐採禁止令」を一時的に撤廃しました。近代化に必要な「枕木、建材、燃料の薪や炭」の急激な需要増を賄うため、意図的に山の資源を開放したという側面が極めて強かったのです。
当時の政府の認識と、日本の森が「はげ山」に向かった具体的な実態は以下の通りです。①鉄道の枕木と電信柱:全国に急ピッチで線路を敷くため、腐りにくく頑丈な巨木が「枕木」として大量に伐採されました。当時の電信柱はすべて木製でした。②近代都市の建材:近代的な工場、役所、軍の施設、そして人口が急増する都市部の住宅を建てるために、膨大な建築用材が求められました。③エネルギー源(薪や炭):石炭や石油の利用が本格化するまで、近代的な製鉄、レンガ製造、絹を紡ぐ製糸場などの工場エネルギー、そして急増した都市住民の家庭のエネルギーは、すべて山から採れる「薪(まき)」や「木炭」に依存していました。そんなことから、木材需要を満たすために山にある木を切ったのです。野生動物に対する向き合い方と同じです。深い考えはありません。そして、先人の知恵から学ぶという考えもなかったのです。
江戸幕府や各藩は、森林の枯渇による水害を防ぐため、「この木を1本切ったら死罪(尾張藩の木曽山に伝わる「木一本首一つ」という言葉)」といった、極めて厳格な保護規制を敷いていました。それは、江戸初期に各地で新田開発や城下町の建設の際の建材などの切り出しによる大洪水が頻発する事案から学んだことだったのです。彼らは「山を丸裸にすると、凄惨な洪水(水害)が起きて下流の農地と城下町が全滅する」という因果関係を、経験則から「防災の知恵」として学び、それを全国的に共有し、冷徹なまでに徹底していました。山が荒れると川底に土砂がたまり、少しの雨で洪水が起きて米が収穫できなくなります。「米の収穫量が減る=藩の財政破綻」を意味したため、幕府や各藩のリーダーたちはそうならないように知恵を絞ったのです。
幕府は1660年代以降、全国に向けて「諸国山川掟(しょこくさんせんおきて)」などを度々発令しました。これは「川の源流部で木を切ってはならない」「山の斜面を開墾してはならない」という、全国共通の防災ガイドラインでした。そして尾張藩(木曽谷)、秋田藩や南部藩、土佐藩など、豊かな山を持つ藩はどこも独自の厳しい「林政(りんせい)」を敷きました。「お留山(おとめやま)」として一般人の立ち入りを全面禁止し、木を切るだけでなく「枝1本、葉1枚」の持ち出しすら厳罰に処すことで、奥山の原生林(広葉樹や木曽ヒノキなどの美林)を死守したのです。
こうした幕府・諸藩の森林管理と村落共同体による山林利用を現代的な視点から整理すると、日本の山村には「奥山―里山―人里」という三層の空間構造が形成されていた、と見ることができます。①奥山(神の領域・動物の領分): 藩の規制によって人間が入れない「お留山」です。ここには豊かな広葉樹(ブナやナラ)が残り、クマやオオカミ、シカ、イノシシのエサと住処が100%保証されていました。②里山(人間の生活領域・緩衝地帯): 村ごとに利用権が認められた共同の山(入会地:いりあいち)です。住民たちは藩の許可の範囲内で、薪や炭、堆肥にするための落ち葉を毎日熱心に採取しました。下草が刈られて見通しが良いため、動物にとっては「恐ろしくて近づけない防衛線」として機能しました。③人里(農地・都市): 先人たちの智慧とは「山の神(野生動物)の領域には踏み込まず、人は里山の中で慎ましく暮らす」という、厳格な役割分担の維持でした。こういったことが動物との共生に繋がったのです。
江戸時代の人々も、決して野生動物と完全に調和して暮らしていたわけではありません。しかし、長い試行錯誤の中から、「人が利用する山」と「むやみに手を入れてはならない山」を分け、自然との間に一定の境界線を引く知恵を身につけていました。現代のクマ問題を考えるとき、私たちが学び直すべきなのは、まさにこの「境界線をつくる知恵」なのではないでしょうか。

(「山田証~シンガーソングライター-uzuraFARM」)
読んでいただきありがとうございました。
よろしければ「ブログ村」のクリックをお願いします。
↓