「私の高校の先輩である海部俊樹氏が亡くなられました。SNSのコメントの中には、誤解もあるし、心無いものも散見されます。この場をお借りして、一言言わせて頂きたいと思います」
「先輩ということは、名古屋の私立東海高校ですね」
「浄土宗系の私立学校です。彼の引き際の見事さを皆さんに知って頂きたいと思っています。彼は、最後2009年の衆議院選挙で落選をして、そこで政界引退を決意したのです。79歳でした」
「最近は、その後もいろいろ残って活動する人がいますものね」
「引き際の良さというのは、日本の美学だと思います。それを政治家が率先してやる必要があるのに、中には総理大臣までなった人がいまだにツイッターで意見を発信したり、子供が大臣になったのに霞が関周辺で講演会をしてみたり、という人がいますからね」
「特に、この場合は引退という取り決めは、どの政党にもないのですね」
「ないですね。中国のように長老が集まる会議もありません。自主規制ですが、私の言いたいのは、昔の肩書でいつまでも口出ししないで欲しいということです。政治家は現実の社会をどうするかということに責任を負っていますので、意見を言いたいのであれば、再び国会議員に立候補する、あるいは論文をオピニオン誌に発表して見解を述べる、どちらかにすべきでしょう」
「それが出来ないなら、引退して欲しいということですね」
「そういうことです。代議員の資格がなくなれば、一線から退くべきです。単なる、かき回しのために残っているようなものだからです」
「それはそうと、内閣の支持率が上がっていますね。時事通信によりますと、51.7%と過去最高になったそうです。ちなみに、評価しないは28.1%です」
「近年になく、差が開きましたね。特に、具体的な成果は上がっていないので、ある意味不思議な感じはします。今日は、彼の「新しい資本主義」についての批判ですが、支持率を下げてしまったら申し訳ないですね(笑)」
「影響力は殆どないと思いますので、遠慮なしに言って下さい。ここは中国とは違いますから。ここからが本論です ↓」
岸田首相に敬意を表する
岸田首相が『文藝春秋』2月号に「私が目指す『新しい資本主義』のグランドデザイン」という論題で寄稿しています。忙しい公務の合間を縫って自分の主張を一つの文章としてまとめ、何とか国民に分かって欲しいというその気持ちに対して敬意を表したいと思います。今まで、多くの総理大臣がでましたが、就任直後にこのような形で論文を発表したのは、私の知る限りでは岸田首相が初めてではないかと思います。
ただ、そこで書かれている内容については、いろいろ問題があると思っています。用語の使い方や基本的な視点も含めて、気になった点をいくつか指摘したいと思います。
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「資本主義のバージョンアップが必要」には危険な香りがする
資本主義という言葉は、社会主義の対抗概念として多分左翼陣営が編み出したものではないかと思っています。対抗概念という認識が定着すれば、どちらが優れているか、どちらが生き残るか、さらには資本主義はいつ潰れるのかという議論を組むことができます。アメリカでは、資本主義という言葉を殆ど使いません。自由市場経済です。マルクスは資本制と言っていました。
資本主義の英訳はキャピタリズム(capitalism)です。capital(資本)とism(主義)に分解できますが、capitalというのは、元金(元手)という意味に過ぎません。これにism(主義)をつけたのが資本主義なのですが、非常に奇異な言葉です。自由市場経済が進展すれば、当然資本 (富)が集積します。当たり前の現象をわざわざ資本主義と言う必要はないのです。
別の見方をしたいと思います。文明が進展すれば大量生産が要請され、そのためには多くの工場機械と人員、それを賄うための資金(資本)が必要です。それは、政治体制、経済体制が何であろうと関係のない話です。つまり、独裁であろうと民主主義であろうと、社会主義経済であろうと資本の必要性においては変わらないのです。だから、わざわざ資本主義というネーミングはいらないのです。
資本が増大すれば、それを管理する体制が必要です。それを分割して管理するという画期的な方法を人類は発明しました。株式会社(私企業)です。一人では資金を賄うことが出来なくても、多くの人の協力があれば資金だけでなく、その企業を設立して運営していけば従業員と資金提供者だけでなく社会全体も潤うことになります。そのため、国も私企業が自由に行動できる環境整備をするようになります。国と資本との両輪によって経済が発展するという形が20世紀になってつくられたのです。そこには蓋然性があったことなので、資本主義というネーミングは必要なかったと思います。主義というのは、1つの考え方という意味だからです。
しかも、資本主義のネーミングを使うと、今の経済の本質が自由競争経済であることが段々薄れていきます。先に、国と資本との両輪と書きましたが、あくまでも主役は資本を有している企業です。国はあくまでも黒子です。国が率先して経済を引っ張ろうと考えること自体、実は危険な考えです。「資本主義のバージョンアップが必要」という岸田首相の言葉には、そういった危険性を感じます。
(「~市場における競争の必要性~」)
分断や格差の是正は、政治的課題
「私は、世界的課題となっている分断や格差を乗り越える資本主義をわが国で実現したいと考えています」と岸田首相は言いますが、「分断や格差を乗り越える」課題を自由競争経済に担わせることはできません。それは、政治的に解決する問題です。
ここでも資本主義という言葉を使うので、誤りを犯すのです。自由競争経済の中で格差、さらには分断はどうしても起こります。ただ、それが経済の活性化を生みますので、それはある意味、必要悪です。運動会の徒競走で順位がつくのと同じ理屈です。その時に、その順位の差をどこで調整するのかという問題です。かつて、ゴール手前まで自由に走らせて、速い子から遅い子まで全員揃ったところで、全員で手をつないでゴールインさせた学校もありました。岸田首相の発想はこれと同じです。
(「大阪ガスエネルギー・文化研究所」)
表面的な形だけ整えても、今度は子供たちの中から、特に速く走った子供から不満が出て来ます。そうすると、今度は一生懸命走らなくなります。特に,速く走る子は。速く走る子は運動会全体を盛り上げてくれますので、彼らがやる気を無くすと雰囲気が沈みます。同じ理屈です。牽引していた企業の生産活動、研究活動が止まるので、それが全体に連鎖して経済全体の停滞が起こり始めます。要するに、分断や格差の解消を経済に求めてはいけないということです。
どうすれば良いのか。運動会で活躍できなかった子が活躍できそうな場面を作ることです。学級活動、ボランティア活動、何かのコンクールなど、評価できそうな場面を作為的に作って、1年の教育活動全体を通してスポットライトが全員に公平にあたるように教師側が考えるのです。
政治と経済も同じ理屈です。経済的な格差は当然つきます。それをどのように地ならしするかは政治の力です。そう書くと、富裕層や大企業から税金としてとるための法整備をすれば良いと考える人もいますが、イソップ物語の北風と太陽の話のように、お金を持っている人が褒めたたえられるような基金を作ったり、あるいは寄付制度を作ったりして、本当にお金が必要な人たちにきめ細かく行きわたるような仕組みを政治的につくることを考えるのが政治家の務めなのです。累進税率を高めたり、一律10万円を子供に配ったりというのは賢明なやり方ではありません。
経済のことは原則的に企業家に任せる。政治家は環境整備に徹する。新たな資本主義をつくることなど一人の政治家、あるいは政党が出来ることではありません。「経済家」とは言わないのはそのためです。政治の原点に立ち返ることが必要だと思います。
(「You Tube」)
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