
「前回のブログでは、少子化の最大の原因は明治以来、共同体を潰してきたことにあるという話でした。共同体は人間にとっての基礎細胞のようなものと考えているのですね」

「人間は多くの細胞によって構成されています。国も多くの組織、そして機関によって構成されています。両者は組織的構造物であることに変わりはありません。生物学的に生きているかそうでないのかの違いだけです」

「その細胞を壊すような政策を採り続けてきたということですね。ただ、何を基礎細胞と考えれば良いのですか?」

「最初に定住生活を始めた「かたち」を基礎細胞と考えれば良いと思います」

「具体的には、どういったものですか?」

「三内丸山遺跡(青森県)の発掘調査が始まったのが1992年です。今から約6千年前の遺跡ですが、すでにその頃から定住生活をしていたことが分かっています。それが原型になると思います」

「もう、その頃から定住していたのですね」

「その地に1500年位共同生活をしていたことまで分かっています。人口は500~1,000人程度であっただろうと言われています」

「1500年間、減りもせず、増えもせずということですか?」

「共同体の中に調整力が働いていたと思われます」

「食料生産が急に増える訳ではありませんものね」

「そうですね。ここからが本論です ↓表紙は「青い森林ーFC2」」
自治とは制度ではなく共同体の再生力である
細胞が健全であれば、再生力や復元力があります。そのため傷を負っても傷口がその働きによって塞がれ、回復します。共同体についても同じことが言えます。共同体が機能しているかどうかは、そのような再生力・復元力があるかどうかで判断できるのです。
具体的な例を挙げて説明します。川に行って魚を獲る人が不足した、病人を看護する人が必要になった、という場合に、その欠員を誰かが補い、共同体の機能を維持できるかということです。そのように共同体のために自発的な動きが起き、役割の空白を埋める態勢が取られていれば、長期間にわたる定住生活も安定的に継続するでしょう。そのような働きを自治と呼ぶのだと思います。
ところが、憲法学者の中には、法制度に組み込まれることを自治と考えている人もいます。宮沢俊儀は『憲法』(有斐閣、1986)の中で、「1878年には府県会、1880年には区町村会と、それぞれ地方的民選議会が設けられたが、…(略)…市町村の施策において、かなりの地方自治が実現された」と述べています。彼は議会政治が行われていれば自治だと思い込んでいた節があります。また、伊藤正巳も『憲法入門』(有斐閣双書、1998)の中で「(明治憲法下で)最も基本的な地方公共団体とされた市町村ではかなり高度の自治が認められていた」と説明しています。しかし、議会が存在することと自治が存在することは同義ではありません。自治の本質は共同体そのものが持つ自律性にあります。
この点について、最高裁は区議の贈収賄罪事件(東京地判昭37、2、26)の判決の中で、自治の意味について述べています――「単に法律で地方公共団体として取り扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識をもっているという社会的基盤が存在し、……相当程度の自主立法権、自主財政権等地方自治の基本的権能を附与された地域団体であることを必要とする」。本来は、それぞれの共同体が機能しているかどうかを個別に行政が判断し、相応しい場合はその共同体に「地方自治の基本的権能」を附与すべきであり、一律かつ機械的に与えるものではないということだと思います。

(「note」)
地方自治制度の出発点と府県会の誕生
日本の地方自治制度はどのようにスタートしたのでしょうか。西南戦争(1877)が士族による最後で最大の反乱でした。これが鎮圧されると、士族の反乱や農民一揆が次第に沈静化します。その翌年の1878年、政府は郡区町村編成法などを制定し、旧来の郡・町・村を行政の単位として復活します。すでに廃藩置県は実施されており、府県の下の行政区画として、市街地は「区」、その他は「郡」を置き,郡の下には町や村を行政の末端組織として位置付けたのです。
ところが、明治10年代に自由民権運動が起き、それが全国に広がりを見せます。自由民権運動では、当初から地方自治の要求が掲げられ、それは議会(民会)を作る動きに発展します。例えば、後に自由党総裁になる板垣退助がつくった土佐立志社がありますが、彼は人権を拡大するために民会を作らなければいけないと考えたのです。やがて、この運動が全国に広がっていくことになります。1878年には、高知県では土佐集会という議会が自主的につくられます。この運動が全国的に広まる中、政府は北海道と沖縄を除くすべての都府県で府県会を設置します。
この府県会は現在の県議会とは大きく異なります。現在の議会は条例や予算など幅広い権限を有していますが、当時の府県会は「地方税の使い道とその集め方」くらいしか議決権がありませんでした。議題を提出できるのは知事(県令)しかできず、議会側から政策提案をすることはできませんでした。さらに政府の意に沿わない場合は、内務卿(現在の総務大臣にあたるポスト)によって議会を解散させられることもあったのです。このように、当時は「住民の代表が自治を行う場」というよりも、「政府が税金を円滑に集めるために、地域の有力者の意見を聞く場」という性格が強かったと言えるでしょう。
1879年には、この府県会の議員を選ぶ日本で最初の公選(選挙)が実施されました。国会(衆議院)の選挙が始まる1890年よりも10年以上早い、歴史的な出来事だったのです。しかし、選挙権があるのは地租を年間5円以上納めることができた富裕層のみでした。

(「町田市」/自由民権資料館常設展示)
自然村が支えた最初の地方選挙
府県会の選挙が行われた時点で、全国に自然村が7万1,497あり、それぞれの村には現在の町村長にあたる「戸長」という代表者がいました。江戸時代には、名主や庄屋と呼ばれていましたが、政府の命令(郡区町村編成法)により名称が改められたのです。府県会の選挙において、村の代表者(戸長)は議員の候補者になる立場であると同時に、選挙をとり仕切る責任者(投票管理者)でもありました。そのため、戸長の自宅や、村の役場(戸長役場)がそのまま「投票所」になり、戸長が村の中の「税金を5円以上納めている有権者」を厳密にチェックして投票を管理しました。
選挙の管理と言っても、人口の数パーセントしか選挙権がない時代です。1つの自然村(数〜数十世帯)の中に、投票できる「地租5円以上」の富裕層は数人しかいないことも珍しくありませんでした。そのため選挙は、村の代表(戸長や大地主)がそのまま立候補したり、村の代表者同士が事前に話し合って票をまとめたりというように、村同士の結びつきで動いていました。つまり、現在の政党選挙とは違い、「伝統的な村のリーダー(代表者)を、周辺の村々が担ぎ上げる」というのが、当時の府県会選挙の実態でした。
このように最初の府県会を自然村が支えたのですが、明治政府は約7万もの自然村を約1万5千へと強引に統合します(明治の大合併)。その最大の理由は、「近代的な行政・教育・徴税の仕組みを全国一律で動かせる、タフな基礎自治体(市町村)を作るため」です。しかし、その過程で自然村が持っていた共同体としての機能を失うきっかけとなったことは確かです。
次回は、この明治の大合併がどのように進められ、自然村にどのような影響を与えたのかについて見ていきたいと思います。

(「JBpress」)
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