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少子化はなぜ止まらないのか(最終回)―― 共同体解体の160年 / 自然村・自治・アイデンティティから考える人口問題

  • 2026年6月20日
  • 歴史
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「明治の藩閥政府の三大失策は、中央集権国家をつくって富国強兵政策を進め、自然村の大合併を行ったことです」

女性

「自然村の大合併(明治の大合併)は殆ど知られていない史実ですよね」

「事の重大さがまったく理解されていないからです。共同体そのものが破壊されるきっかけとなった事案です」

女性

「ただ、すべての村が合併に反対だった訳ではないのでしょ?」

「財政的に行き詰まっていた村も中にはありましたので、そのような村は歓迎していたみたいですね」

女性

「他力本願の村もあったということですね」

「都市近郊や商業が盛んな村は、1つの大きな町になった方が経済的に有利だと判断し、合併を歓迎する傾向があったようです」

女性

「逆に、絶対反対と主張していた村もあったはずですが、どのような理由だったのですか?」

「自分たちの村で代々管理してきた「入会権(薪や草を採る共有の山)」や「水利権(農業用水の権利)」が、合併相手の村にも自動的に付与されることを嫌がったようですね。必ずしも、隣村と良好関係が築かれている村ばかりではありませんからね」

女性

「なるほど、そうですよね。利害関係が絡むと、仲が悪くなるでしょうね」

「自然村の中には千年以上の歴史を有する村もあり、独自の財産(共有の山や水路)や神社、お祭りを持つところもありました。彼らにとっては、合併はアイデンティティの危機を意味し、役場へ押し掛けるなど激しい反対運動が巻き起きた地区もあったようです」

女性

「その続きは、本論でお願いします ↓ 表紙は拙著です」

 明治の大合併と共同体の解体

すべての誤りは、日本の地理的条件に合わない中央集権国家をつくって「富国強兵政策」を採用し、近代化を急いだことです。近代化と言っても、西洋文明を日本に移植しようとしただけです。日本の伝統や地域社会との調和をどう図るかという、配慮の欠片(かけら)すらありませんでした。本来は、それまでの伝統・文化を踏まえて、日本的な近代化を追究する必要があったのです。

町村合併も全国一律に行う必要はなかったのです。山間(やまあい)の村の中には隣村といっても、かなり離れていることもあったでしょう。無理に統合しても住民同士の融和・融合が難しいし、却って不便になるということもあったと思われます。ケースバイケースで処理すれば良いものを、町村制を公布して、わずか1年のうちに全国一斉に「明治の大合併」を半ば強引に実施したのです。

自然村の人口規模は500~1000人程度でした。行政機能が成り立つようにと作った村は平均3,000〜5,000人規模となりました。村の数にして約1万5,000です。強権的な統合ですので、当然不満がありました。多かった不平・不満は村の財産に関する問題と、村名が消えてしまうというアイデンティティに関わる問題でした。その際の解決策として旧村を「大字(おおあざ)」、さらに旧村内の集落や山林などを「小字(こあざ)」として由緒ある名を残すようにしたのです。

(「鹿嶋市」)

 行政効率が最優先された近代国家建設

村人たちのアイデンティティに関わることなので、何も急ぐ必要はなかったと思います。しかし、行政側が自分たちの都合に合わせて事を進めてしまったのです。そのように、政府が合併を急いだ主な理由の1つは、小学校の運営費用をまかなうためです。当時、政府は「学制」を敷いて全国に小学校を作らせていましたが、その費用は各村の負担でした。戸数(世帯数)が数十軒しかない小さな自然村では、学校を建てたり、先生に給料を払ったりする財政力が圧倒的に不足していました。複数の村を合体させ、学校を維持できる経済規模(目安として300〜500戸以上)にする必要があると考えたのです。しかし、これも政府の勝手な論理です。そもそも、勝手な考えで統合しておいて、さらに村で全額負担して学校を作れという考え方自体が乱暴です。

理由の2つ目は、1873年から始まった徴兵制です。小さな村ごとに対象者を探して集めるのは大変な手間でした。一定の人口規模を持つ「市町村」に徴兵事務などの行政負担を義務付けることで、軍隊に送る若者の管理や徴集を確実に行う体制を作ろうとしました。このように、学校・役場・税金・軍隊という「近代国家のインフラ」を、いかに効率よく行うかということだけを考えて行われたのが明治の大合併だったのです。

自治体の合併は、その後現代まで何回も行われますが、それは人間で言うところの基礎細胞を破壊する行為だという自覚が全くありません。自然村は、単なる行政区画ではなく、独自の財産(共有の山や水路)や神社、お祭りを持つ「生活・信仰の共同体」でした。明治の初期に約7万1千あったのですが、江戸の元禄時代には約6万だったとのことです。つまり、多くの自然村が何百年という歴史を郷土に刻み込んでいたのです。そのような村人からすると、「どうして合併しなくてはいけないのか」という不満が強く残ることになります。結果、合併にアイデンティティの危機を感じ、激しい反対運動(合併拒絶、役場への押し掛け、同盟罷業など)が全国で巻き起こっています。1889年3月から翌年1月という短い期間の中で、16の府県で計24件の「大規模な反対運動」が組織され、暴動や激しい抗議活動に発展したことが記録されています

(「elk.superliga6.pl-Super Light」)

 共同体を守った国と失った国・日本

明治以降に成立した政権は、結局、この合併を含めて現在に至るまで3回も半ば強制的な合併再編を行っていますが、そのような国は先進国では日本だけです。しかもそれを行政の都合で一斉・一律に行っています。日本は昭和の時代になってファシズムに走りますが、この時期に専制政治の兆候がすでに見られたということです。

ところで、日本人と国民性がよく似ていると言われているイタリアと比較をしてみたいと思います。イタリアの地方行政は「州(Regione)」「県(Provincia)」「コムーネ(Comune)」の3段階で構成されており、コムーネはその最末端に位置します。コムーネは日本の市町村に該当する基礎自治体のことです。日本では人口規模によって「市」「町」「村」と区別されますが、イタリアでは規模に関わらず全て一律で「コムーネ」と呼ばれます。人口数百人の山奥の小さな「村」もコムーネですし、人口数百万人を抱える首都ローマもコムーネです。そして、イタリア全土には約7,900のコムーネが存在し、人口5,000人未満の小さなコムーネが全体の約7割を占めています。日本のように強制的な大規模合併が行われてこなかったため、古い歴史を持つ小さな共同体がそのまま自治体として残っているのです。

コムーネの語源は、中世(11〜12世紀頃)に北・中部イタリアで発達した「都市国家(自由都市=Comune)」にあります。当時の住民たちが、皇帝や封建領主の支配から脱して自分たちの街を自主管理するために作った誓約共同体がルーツです。そのため、イタリア人にとってコムーネは単なる行政の単位ではなく、「自分たちの歴史と文化が詰まった故郷」という強いアイデンティティの対象となっています。こういった意識が地域を支え、国を支えることになります。

本来、為政者はそのような意識が芽生えるような政策をするべきですが、日本の場合はそれを打ち消すような政策しか行ってきませんでした地域との結びつきを失った個人が増え、孤立が社会の常態となりつつあります。少子化の根本的な原因は、まさにそこにあるのです。つまり、少子化の背景には、このような共同体の衰退とアイデンティティの喪失という問題が横たわっているのです

(「Wikipedia」)

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