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「和の国」から、「大日本帝国」になった日本 (その1)  ―― 明治藩閥政府が作った歴史観を問い直す / 「不平等条約」という通説は本当に正しいのか

  • 2026年7月23日
  • 歴史
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「大日本帝国と聞くと、どのようなイメージを持ちますか?」

女性

「軍事国家、旭日旗、日清、日露戦争。こんなイメージです」

「強い国のイメージでしょうか。実際に、明治時代になって「富国強兵」政策を遂行します」

女性

「もともとは「和の国」として出発し、江戸時代を見ても和の文化が咲き誇っていたと思うのですが、かなりの方向転換です。何があったのですか?」

「「人が変わった」という表現がありますが、それを借りるならば、「国が変わった」からです」

女性

「革命があった訳ではないのでしょ?」

「革命として捉える学説もない訳ではありません。その位の激しい変化があったことは確かです」

女性

「敗戦後も極端に変わっていますよね」

「そうですね。極端な変化がその100年足らずで2回も起きています。そのため、それらを通史的にどのように見たら良いのか、学者レベルでも揺らいでいます」

女性

「どうして、揺らいでいるのですか?」

「一番の原因は、政権を執った薩長たちが様々なプロパガンダを流しています。そのため、それが正しい歴史であるかのように思い込まされてきたからです。AIが急速に普及していますので、史実を誰でも簡単に調べられるようになりました。幕末の時代から検証してみたいと思います」

女性

「ここからが本論です ↓表紙は「少しリアルな大日本帝国」の提供です」

 「不平等条約」という通説は本当に正しいのか

薩長を中心とする勢力が幕府を倒して手に入れた政権です。新たな政権が前政権を否定的に描くことは、歴史上しばしば見られる現象です藩閥政府も御多分に漏れず、多くのプロパガンダを流し、自分たちの政権の正当性を主張しました。そのプロパガンダをそのまま歴史の教科書に載せているのが現状です。

例えば、関税自主権と治外法権がそうです。あたかも幕府が無能だったため、日本に不利な内容(領事裁判権、関税自主権の欠如)の条約を結ぶことになり、その不平等条約解消のため、明治政府は岩倉使節団を欧米に派遣する等、大変苦労した、と受け取れるような内容のことが教科書に載っています。下の4コマ漫画は、幕末に締結された条約の内容を解説したものです。多くの人は今でもこれをそのまま信じていると思います。

来年の大河ドラマは幕府の勘定方奉行だった小栗上野介(こうずけのすけ)が主役だそうですが、彼も含めて優秀な官僚が幕府方にいました。彼らが条約交渉で外国の勝手な条件を鵜呑みにするはずがありません。そこで、実際はどうだったのということですが、「協定関税率」を導入して、関税率を20%と定めています。その20%という数字は当時としては国際常識レベルの数値でしたし、関税率を変更する場合は、相手国との協議が必要と定めてあるだけのことでした。さらに、国内で外国人を裁く場合は、その国の法律を適用するという領事裁判権をお互い認め合うという内容でした。つまり、日本国内でアメリカ人が犯罪を犯した場合は、アメリカ領事裁判所が裁判を行う一方、アメリカ国内で日本人が犯罪を犯した場合は、日本領事が裁判権を持つという相互主義の考え方が条約にはあったのです

学校の教科書などでは、いまだに「不平等条約」の一言で片付けているのが多いと思われます。近年は史料の公開やAI検索によって一次資料に容易にアクセスできる時代になりましたので、プロパガンダ的な記述はこれからは順次訂正していく時代だと思っています。試しに「幕末に結ばれた通商条約ですが、協定関税率を導入して関税率を20%と定め、関税率を変更する場合は相手国との協議が必要と定め、さらに領事裁判権は日本も有するといった相互主義の考え方で結ばれており、不平等条約とは言えないと思います」とAIに質問して、各自で確認してみて下さい。

(「ゆみねこの教科書」)

 関税率20%から5%への転落はなぜ起きたのか

そのように当初はお互いが協定を結んで20%にしたのに、どうして5%に引き下げられたのでしょうか関税率が5%になった原因としては、薩摩藩(生麦事件、薩英戦争)や長州藩(下関事件・四国艦隊砲撃事件)による攘夷を掲げた武力事件や軍事行動にあります。

生麦事件(1862年)というのは、武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で発生したイギリス人殺傷事件です。島津久光の行列に、馬に乗ったイギリス人4名(商人や女性など)が遭遇したのですが、彼らは大名行列を横切ってはいけないという慣習を知らなかったため、その行列に割り込んでしまい、激昂した薩摩藩士によって斬りつけられ一人が死亡2人が重傷を負った事件です。

殺すほどのことではなかったと謝罪すれば良いものを、薩摩藩は正当な職務執行を主張して賠償金の支払いなどを全面的に拒否したのです。そのため、イギリスは艦隊(7隻)を鹿児島湾に差し向け砲撃を開始します。薩摩藩が先制の砲撃はイギリスの旗艦「ユーライアラス」に命中。艦長や副長が戦死するなど、イギリス側に大きな人的被害(死傷者数10名)を出しました。報復としてイギリス艦隊は猛烈な艦砲射撃を行い、薩摩の近代化工場(集成館)や、鹿児島城下町の約1割を焼き払ったのです。

軍事力を見せつけられた薩摩藩が、「攘夷(外国排除)は不可能だ。むしろイギリスの先進技術を学び、味方につけて幕府を倒そう」と方針を180度転換します。軍事力の圧倒的な差を認識したことで現実路線へと舵を切りますが、深い考えもなく攘夷の方針を立てたことが分かります。この方針転換により、薩摩藩はわずか2年後の1865年、幕府の禁令を破って五代友厚ら19名の「薩摩藩英国留学生」をロンドンへ派遣し、イギリスから最新兵器を買い付けるルートを確立するなど、急速にイギリスに接近するのです。

(「薩摩藩留学生記念館」)

 「5%関税」はどのように成立したのか

一方、長州藩ですが、朝廷と幕府が決めた「1863年5月10日をもって攘夷実行」という方針をそのまま受けて、下関海峡を通過しただけのアメリカ、フランス、オランダの商船や軍艦に対し、前触れもなく急に大砲を撃ち込んだのです。怒ったイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国は、翌1864年に17隻の連合艦隊を結成して下関に襲来し、艦砲射撃で下関の砲台を次々と破壊し、さらに陸戦隊(兵士)が上陸して砲台をすべて占領・爆破されるという事件が起きました。

薩摩、長州の両藩との戦闘の後、英国のパークス公使は、日本を自国の工業製品の市場にするため「輸入関税を5%に下げろ」と強硬に要求した上で、英仏米蘭の軍艦9隻を率いて、まだ開港していなかった大坂・兵庫の沖合に現れ、「要求を飲まなければ、京都の天皇や大坂の幕府拠点を直接攻撃する」という露骨な軍事威嚇(砲艦外交)をしました。

小栗は「国際法に照らしても列強の要求は不当であり、ここで屈してはならない」と主張しましたが、目の前に迫る軍艦に恐怖した老中(水野忠精ら)は狼狽(ろうばい)し、小栗の反対を押し切って「改税約書(1866年)」に調印したのです。こうして日本の関税自主権は事実上、奪い取られることになったのです。それから約50年、関税自主権を奪われることになります。

皮肉なことに、関税率引き下げの契機を生んだ薩長勢力が、その後に成立した明治政府の中核となり、「不平等条約を押しつけられた被害者」として条約改正に取り組むことになります。幕末から明治維新という歴史の転換点で実際に何があったのか、正確に史実を辿る必要があります。この続きは次回にまわしたいと思います。

(下関事件/イギリスに砲台を占拠/「日本史事典.com」)

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