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明治維新は本当に「成功」だったのか ―― 司馬遼太郎 と 津田左右吉が問いかける日本近代史の光と影 / 昭和の敗戦は明治維新から始まっていた

「津田左右吉という方を知っていますか?」

女性

「何か授業で習ったような気がします」

「津田事件と言われています。彼は記紀の記述を神話と史実を分離して天皇や神代の記述を批判的に考察して『古事記及日本書紀の研究』を出版しましたが、発禁処分になってしまいました」

女性

「戦前は、『古事記』を研究してはいけなかったのですよね」

「一種の『聖典』としてそれを肯定的に捉える研究は奨励されたのですが、批判的な研究は許されなかったのです。その津田左右吉の『明治維新の研究』という本が今でも売れ続けているそうです。ある意味、それは凄いことですが、この本を読むと津田の堅い性格が分かります」

女性

「読みにくい、難しいということですか」

「スラスラと読めるような本ではありません。私自身は読むのに難儀しました。批判的に検討したいと思います」

女性

「本論に入る前に、評価する点と問題だと思われている点、それぞれについて一言お願いします」

「評価する点は、何と言っても明治維新について客観的に分析し批判している点です。問題だと思われるのは、江戸時代の見方ですね。「江戸否定論」とも言うべき内容ですが、西洋近代史観からの一面的な内容になっています。江戸は暗い時代であったという思い込みで書いている気がします」

女性

「ここからが本論です ↓ 表紙は「旭屋書店」提供です

 明治維新の「成功物語」はいかにして生まれたのか

明治維新を日本近代化の輝かしい出発点として捉える歴史観は、今日でも根強く残っています。例えば、山内昌之・細谷雄一『日本近現代史講義』には、明治という時代を次のように回想する文章があります。「日本人は、明治という時代を覇気と客気(かっき)に満ちた青春期として回想する。世界の動きから取り残されていた僻遠の島国が、国を開いてから一気呵成に坂の上の雲を目指して疾駆(しっく)し、ついに世界の一等国にのしあがった栄光の時代」(山内昌之、細谷雄一『日本近現代史講義』中公新書、2019)。この調子だと、2年後には明治改元から160年ということで「明治維新160年」の催しが各地で行われることになるのでしょう。現在の日本の国家制度は、明治期に形成された制度を継承しながら発展してきました。その意味で、明治維新は現代日本の国家形成の出発点の一つであり、政府にとっても肯定的に評価しやすい歴史的出来事なのでしょう。

明治維新に対して、肯定論、否定論の両方ありますが、その評価が一致しないのは、歴史を見る基準という評価軸が根本から異なるからです。

評価軸 肯定的評価 否定的評価
重視するもの 国家の独立と近代化 民衆の自治と国民生活
明治維新の評価 条約改正、近代国家の形成、富国強兵 地域社会の再編、地租改正、徴兵令による民衆の負担
歴史的評価 列強の圧力に対抗するための必要な改革 日本的な近代化を追求すべき

 

昭和の大戦との関係 明治の成功と昭和の敗戦を区別する傾向 明治の国家制度と昭和の破局を連続的に捉える

表を見れば分かると思いますが、国の事情から発想するのが維新肯定派です。一方、庶民の生活目線から維新を否定的に捉えようとするのが否定派です。「富国強兵」というスローガンが掲げられ、近代化に邁進しても、それが国民にとって何の福利をもたらさなければ意味がない訳です。

明治維新に対する評価が分かれるのは、国家の独立と近代化という成果を重視するのか、それとも、その過程で国民や地域社会が負った犠牲を重視するのかという、評価軸の違いによるものです。そもそも国家の独立や繁栄は、何のために実現するのでしょうか。国民の幸福と社会の安定を実現するためではないでしょうか。国家の成功を国民の幸福から切り離して評価すること自体に、問題があるように思います。

そこに戦後になって、幕末・明治維新期を国家の成功という視点だけでなく、時代を生きた人間たちの青春と挑戦の物語として描いた作家が現れました。司馬遼太郎です。司馬遼太郎の歴史小説(『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など)を貫く基本的な視点は、「明治の若者たちは純粋で、前を向いて合理的に生きていた」、しかし「昭和に入ると日本人は急速に愚かになり、狂信的な軍国主義に走って破滅した(暗い昭和)」という二分法です。

敗戦によって自信を失っていた戦後の日本人にとって、「昭和の戦争は間違いだったが、明治の近代化の出発点は正しく、美しかった」という物語は、強烈な救い(免罪符)になりました。「自分たちの祖先は本来、優秀で合理的だったのだ」と思わせてくれる極めて心地よいストーリーだったのです。明治維新から日露戦争までを日本の成功物語と捉え、その後は軍部が独走して不幸な戦争の渦に巻き込まれてしまったというストーリーが国民の間に定着していったのです。

(「講談社」)

 司馬遼太郎が描かなかった「明治と昭和の連続性」

その後、司馬氏は日露戦争(『坂の上の雲』)の後に続く、1939年の日ソ両軍の衝突「ノモンハン事件」を小説化しようと、関係者への取材や資料収集を進めました。しかし、その過程で浮かび上がってきたのは、作戦上の判断の誤り、前線部隊に対する無理な要求、そして敗北の責任をめぐる軍上層部の無責任な姿勢でした。司馬氏は結局、この事件の小説化を断念しました。その理由を一つに断定することはできませんが、昭和の日本軍という組織に対する深い不信感があったことはうかがえます。

歴史は地続きですから、昭和の失敗を描くなら「明治維新のシステムからどう繋がっていったか」を書かなければなりません。しかし、それをやろうとすると、司馬氏がかつて美化し、国民的英雄に仕立て上げた「明治の若者たち」のツケが、すべて昭和の悲劇の原因として現れてしまいます。昭和の軍部が政治の統制を離れて行動できた背景には、明治期に形成された統帥権独立の制度と慣行がありました。軍の作戦指揮に関する権限が内閣の統制を受けにくい仕組みとなり、政治と軍事の責任関係が曖昧になっていたのです。この後、国家を滅ぼすことになる「最悪の欠陥システム」を作ったのは、他ならぬ司馬氏が絶賛した明治の薩長エリート(伊藤博文や山県有朋ら)だったのです。

昭和の軍隊が犯した「技術や補給を軽視し、精神論で突撃させる」という悪癖の芽は、すでに日露戦争の旅順攻囲戦で明確に現れていました。日露戦争の旅順攻囲戦では、近代兵器によって強化された要塞に対し、日本軍が多大な犠牲を伴う攻撃を繰り返しました。そこには、戦術や兵器の変化に十分対応できなかった軍組織の問題が現れていました。もし昭和をリアルに描けば、「明治維新そのものが、昭和の破滅へと繋がるレールを敷いた張本人だった」という、自分が最も認めたくない結論に達してしまう。だからこそ、彼はそこから目を背けるしかなかったのです。

司馬氏は生前、昭和の戦争について「あれを書いたら、私は一年を待たずして気が狂ってしまう」「昭和という時代は、精神衛生に悪い時代。発狂状態になってしまう」(『昭和という国家』NHK出版、1998)と吐露しています。歴史は地続きです。昭和の軍部の暴走を理解するためには、その制度的な起源を明治国家の形成過程にまで遡って検証する必要があります。司馬氏が描いた明治の青春と昭和の暗部をつなぐところに、日本近代史の重要な問題が残されているのではないでしょうか。

明治の近代化を肯定的に描くことと、その国家制度が後の破局に及ぼした影響を検証することは、決して矛盾するものではありません。しかし、前者の成功物語が強調されるあまり、後者の検証が十分になされなかったとすれば、そこには歴史認識上の問題があると思います。

(「ライブドアブログ」)

 津田左右吉が問い直した明治維新の正統性

「昭和の狂気」の元を辿れば、必然的に明治維新に行きつきます。この明治維新について、庶民ではなく、国側の立場から批判的に捉えたのが津田左右吉でした――「王政復古または王政維新は、本来思想上の革新であるのに、その指導者に、誠実にして確固たる識見を有する思想家がなく、軽浮にして無識な志士浪人輩、もしくはそれと気脈を通じそれと呼応して事を起こしたものの盲目的行動によってすべてが進行したのであるから、新政府のしごとが上記の如きものとなったのは、当然であろう」(『明治維新の研究』毎日ワンズ、2021)。

「明治維新とは薩長の策士どもが仕かけた悪辣で陰険な罠に征夷大将軍が落ちた、ということである」(同上)。津田左右吉の最大の功績は、国全体が「明治維新=偉業」という神話に酔いしれていた時代に、一次史料を冷徹に読み解き、「明治維新とは、薩長の策士たちが仕掛けた悪辣な罠に徳川幕府が落ちたということである」と言い切ったその学問的誠実さにあります。津田は、明治政府が自らの正統性を確立するために行った宣伝政策にも注目しました。明治維新を正義の改革として描く歴史観が、どのような政治的意図や歴史叙述によって形成されたのか。その過程を史料に基づいて検証しようとしたところに、津田史学の重要な意義があります。

一方、津田の歴史認識にも検討すべき問題が残されています。幕藩体制の政治的・社会的制約を重視する一方で、江戸時代の地域社会が持っていた自治能力や、長い時間をかけて形成された共同体の仕組みを、どこまで積極的に評価していたのでしょうか。この点については、改めて検証する必要があると思います。

津田にとって、旧幕府(封建制)も新政府(薩長)もどちらも「不合理なもの」に見えてしまい、結果として「では、日本はどういう近代化の形を目指すべきだったのか」という、地勢や歴史に根ざした具体的な代替案(オルタナティブ)を提示することができませんでした。ただ、そういった問題点はありつつも、津田の果たした学問的役割は大きなものがありました。津田は、国家の正統性を重視する官学的な歴史叙述にも、一定の歴史発展法則を前提とする理論先行の歴史解釈にも安易に同調せず、史料に基づいて自らの歴史認識を築こうとしました。戦後に早稲田大学の総長に選出されてもそれを固辞し、ただひたすら書物と学問に向かい合った人だったと思われます。

そして最後に、明治維新を評価する際に忘れてはならないのは、当時の日本には、近代化を目指す複数の構想が存在していたという事実です。国家の独立を守るために近代化が必要だったとしても、地方の自治能力を弱め、中央に権限を集中させることまで必然だったのでしょうか。明治維新の歴史的評価は、実現した結果だけでなく、選択されなかった可能性も視野に入れて考える必要があると思います。

(「www.amazon.co.jp」)

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