
「昨年の子供の自殺は538人だったそうです。特に8月の終わりから、9月にかけて子どもの自殺が増えるそうです」

「食料や安全の面で特に問題のないこの国で、子供の自殺が増えているのは、どういうことでしょうか?」

「そもそも、自殺が増えている原因を把握していないと思います」

「原因は、友人関係、家庭問題、学校の成績、こんなことでしようか?」

「それは悩みですよね。悩みは生きていれば誰でも出てくるものです。だけど、そのたびに自殺を考えたりはしません」

「そう言われれば、そうですね。2022年から500人を超えるようになりました。4年連続で500人超えです。しかも、子供の数は減っているのに、自殺者は毎年増えています」

「本当に、従来言われているような悩みで子どもが自殺しているならば、少子化に比例して減るはずですよね」

「減らずに増えているということは、別に原因があると考える必要があるということですか?」

「そう考えないと、辻褄が合わないと思いませんか? 子供たちにとって大事なことは、アイデンティティの確立です。自分の特性・個性を掴んで、およその進路について定めることが大事です」

「そういった根本的な疑問に、社会が応える態勢になっていないということなんですね。ここからが本論です ↓表紙は「リディラバジャーナル」提供です」
なぜ豊かな社会で子どもの自殺が増えるのか
今日の日本社会では、衣食住が保障され、学ぶ体制もそれなりに整っています。それにもかかわらず、2022年以降の4年間、子どもの自殺は年間500人を超え、戦後最悪の水準に達しています。少子化で子どもの数が減っているにも関わらず、自殺者が増えています。ある意味、異常事態だと認識して根本原因を探った上で、対策を立てる必要があります。
子どもの数そのものが減少しているにもかかわらず、自殺者数が高止まりし、むしろ増加しているということは、個々の子どもが抱える問題だけでなく、子どもを取り巻く社会環境そのものにも目を向ける必要があるのではないでしょうか。「子供は社会の鑑」ということを言います。子供の自殺を社会の病理構造という視点から見る必要があるのです。
要するに、自分はいったい何者で、どう生きて行けば良いのかという根本的な問題について、学校や家庭も含めて社会が何も応えなくなったことが子供の自殺が増加している重要な要因の一つではないかと考えます。学校は読み書きの勉強をして、放課後に家庭や地域社会の中で過ごす中で、子供たちは自分のアイデンティティを確立していた。それが、明治の学制発布以来の教育的「棲み分け」だったと思います。ところが、ここ近年、共働き家庭が増え、地域の共同体機能が低下し、さらには子供たちが、かつてのように群れて遊ばなくなっています。人は周りの人間関係の中に自分自身を置くことによって、自分とは何なのかを認識する動物です。その作業が出来にくくなっているのです。

(「時事通信」)
学校教育の中で「自分を知る時間」を
自分は何者で、どのように生きれば良いのか。答えが急に出る訳ではありません。出ないからと言って、その問い掛けを止めると“迷い途”に入ります。様々な機会を捉えて、問い続けることに意義があるのです。なぜなのか。それが、人生にとって一番重要なことだからです。
今の学校教育はアイデンティティ確立という問題について、どのように捉えているのか。文科省の学習指導要領には「主体的・対話的で深い学び」や「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」といった、「社会で使える能力(スキル)」の育成が中心です。そして、一応「自己の生き方」「人間としての在り方生き方」「キャリア形成」といった記述はあります。しかし、それらは特別活動やキャリア教育、総合的な学習・探究などに分散しており、「自分は何者なのか」という自己理解を、小学校から高校まで継続的・体系的に深めていく教育課程として位置付けられているとは言い難いような状況です。肝心の「私は誰か」「何のために生きるのか」という、人間の根幹を支える土台についての記述は実質的に棚上げされています。
日本は中央集権的な教育行政を行っている国です。そのため、学習指導要領に明確な位置付けがない教育内容を、学校独自の体系的なカリキュラムとして継続的に実施することには、時間数や教員体制などの面で難しさがあります。しかしながら、そういった状況の中でも「総合的な学習の時間」(高校では「総合的な探究の時間」)を使って、民間(NPOなど)と協力しながら「アイデンティティの確立」を促すプログラムを実践している学校もあるのです。
私がある私立高校で学年主任をしていた時に、高校1年生の生徒を対象に進路指導に絡めて半年間、自分探しのテーマでカリキュラムを組んだことがあります。2年生から文理分けがスタートしますが、何の働きかけもしないと、数学が苦手だから文系、暗記科目が得意だから文系、といった目先の得意・不得意だけで文理選択をしがちです。自分の適性を見つめて、将来どのような方向に進もうと考えているのかを問い掛けながら、進路選択を考えさせたことがあります。全体指導を月に1回の割合で行いながら、後はクラスで自己分析シートを書いたり、家族の意見を書いてもらったものを発表したり、グループになって自己分析の結果を友達に聞いてもらったり、プレゼンテーションをしたりしました。重要なのは、教師が「あなたはこういう人間だ」と答えを与えることではありません。子ども自身が家族や友人との対話を通して、自分について考え続ける機会を学校が意図的に用意することなのです。
わずか半年間の実践でしたが、それまで余り考えたことがなかった自分のことについて、友達や家族から様々な意見をもらったことは、それなりの刺激があったと思います。ただ、本来は、そういった観点で小学校の高学年から高校までを見通したカリキュラムが用意されるべきだと思っています。

(「日経ビジネス」)
「何ができるか」から「どう生きるか」へ
現在の学習指導要領の設計が「何ができるようになるか(能力)」に偏っているため、「自分はどう生きたいか(存在)」という評価がしにくい内面の問題を排除しがちです。「学習指導要領」ではなく、「学校指導要領」もしくは「教育指導要領」にすべきだと思っています。「学習指導」と銘打っているため、どうしてもテストの点数や国際的な学習到達度調査(PISA)など、数値で成果を測れるものを重視したものが出てきてしまいます。目に見えない「自己同一性の確立」はカリキュラムの目標になりにくいのが現状なのです。「学習指導要領」という名称が象徴しているように、日本の学校教育は「何を学ばせるか」という学習内容の体系化には熱心である一方、「一人の人間としてどう成長するか」という視点を教育課程全体に貫くことには十分成功していないように思います。
どんなに勉強ができ、コミュニケーション能力が高くても、「自分という軸」がない子どもは、挫折した瞬間に脆く崩れてしまいます。今やAIが出現し、その存在感がこれから更に増すことになります。それなのに、なぜ学ぶ必要があるのかと思う子供たちも増えていくでしょう。実際に、子供の学習時間が減っていますし、読書をしなくなっています。何の手当もしなければ、この傾向は今後も続くことになります。AI時代には、知識を持っていること自体の価値は相対的に低下していきます。むしろ重要になるのは、「自分は何を知りたいのか」「何をしたいのか」「AIを何のために使うのか」を判断できる人間です。つまり、AI時代になればなるほど、能力以前に「自分という軸」が必要になるのです。自分という軸を持たないままAIという強力な道具を与えれば、人間がAIを使うのではなく、AIが提示する答えに人間が従う、さらにはそれに振り回されるという逆転現象さえ起こりかねません。
学校がスキル(手段)だけを教え、存在理由(目的)を教えていない現行の教育方針を根本的に変える必要があります。そういう中で、子供の自殺も減っていくと思われます。今の学校教育は、場合によっては、子どもたちを「自分が何をしたいか」より「他人からどう評価されるか」を優先する人間へと導いてしまう危険性があります。学習だけでは埋めきれないものを用意する必要があるのです。何故なのか。人は自分自身について、考える動物だからです。その根源的欲求に学校という組織が応えられていない現状の中、孤独感、空虚感を子供たちに与えていると考えられます。
学校教育に必要なのは、子どもに「生きる意味」の正解を教えることではありません。「自分は何者なのか」「自分はどう生きたいのか」を考え続ける機会を保障することです。学習だけでは埋められない領域が、人間にはあります。人間は知識を蓄えるだけの存在ではなく、自分自身について問い続ける存在だからです。子どもの自殺という深刻な現実を前に、学校教育もまた、「何を教えるか」だけでなく、「一人の人間をどう育てるか」という原点に立ち返る必要があるのではないでしょうか。

(「文部科学省」)
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