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歴史学会に蔓延(はびこ)る「天動説」―—西洋史観と明治維新中心主義 / 史観ではなく、アイデンティティを基準とすべし

  • 2024年9月7日
  • 2024年10月1日
  • 歴史
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「日本には「天動説」が蔓延っています。歴史の天動説です」

女性

「天動説ということは、完全にひっくり返っているということですね。具体例を示して頂かないと……」

「日本は世界で最古の歴史を有する国であることは万民が認めていると思います」

女性

「皇紀を認めるか認めないかに関係なく、そこは右から左まで一致しているところですね」

「国の歴史もヒトの一生に準えて考えることが重要だと思います」

女性

「そのことは常々おっしゃっていますよね。私もそう思いますが、国の歴史は客観的なものの積み重ねと考えている人もいると思います」

「そこから膨大な史料を調べ上げることにより、正しい歴史の姿が浮かび上がってくるはずという考え方が導き出されます」

女性

「要するに、多くの人が関わって作られた歴史をすべて検証しようということですよね。ただ、物理的に不可能だと思っています」

「すべてを対象にしていたら、それこそ時間が足りません。そこでそれを整理するためのフィルターが必要となります」

女性

「それが史観ですよね」

「今日は頭が冴えていますね。西洋史観とか皇国史観とか、唯物史観という言い方をします」

女性

「個人の名前を取って司馬史観というのもありますよ」

「いずれにしても、ある特定の立場から歴史を見つめるということになるので、主観的な歴史解釈となります」

女性

「どの史観が正しいかという問題も発生しますよね」

「結局、収拾がつかないことになります。ここからが本論です ↓」

 2つの「天動説」―—西洋史観と明治維新中心主義

2つの「天動説」は相互に関連していますが、1つは西洋史観です。そしてもう1つが明治維新中心主義です。西洋史観は唯物史観とほぼ同義ですが、歴史を「古代奴隷制→中世封建制→市民革命→民主制(資本主義)」という公式の中で捉えようとするものです。

その公式は市民革命を国の夜明けと捉えますので、それ以前の歴史は暗闇の中を突き進んでいただけの時代となります。ということは、その国の歴史は近現代を中心に見れば良いという考えに行きつきます。

日本学術会議が提唱して、教育課程審議会を経て「歴史総合」という科目が高校社会科に導入されました。内容は、日本史と世界史の合体で、近現代以降を取り扱っていますが、日本は西洋とは異なった価値観の下で国づくりをしてきましたので、合体するという発想自体が乱暴だと思っています。現場の教員にも不評だという話をよく聞きます。

(「ameblo.jp」)

 

 史観ではなく、アイデンティティを基準とする

2人の会話にもあるように、史観であれば、その精度をめぐって限りなく論争が続くことになります。識者は「正しい歴史観を持つことが大事」とよく言いますが、所詮は主観的なものなので、万民を納得させることはできません。韓国との間で延々と言い争いになっているのも、お互いが拠って立つ歴史観のもとで発言を繰り返しているからです。

問題なのは、客観性をどのようにして担保するかなのですが、アイデンティティという客観的な概念を使うべきだという提案です。アイデンティティをかつては自我同一性と翻訳していましたが、最近はそのまま原語で使われることが殆どです。それだけ一般的な言葉になってきたということだと思います。意味は、自他ともに認める本人(国)の特徴ということです。要するに人柄・国柄ということです。他人も認めるというのがポイントになります。そのことによって客観性を担保できるからです。日本という国に対して、どうあるべきかと国民の多くが思っている国のかたちがあるはずです。それがまさに客観性となります。

歴史を動かすのは客観的な法則や因果関係ではなく、為政者の感情や思いです。企業もトップの意志決定が重要です。そんなことから、歴代の日本の為政者の中で日本の国を客観的に分析し、その上でこうあるべきだと考えた人がいるかどうかを調べてみました。何人かいました。聖徳太子、天智天皇、天武天皇です。明治維新以降では、誰も見当たりません。そもそも明治維新を主体的かつ継続的にリードした主体が見当たりません。よく「五箇条の御誓文」を引き合いに出しますが、明治天皇が15歳の時に出されたものですし、朝廷が明治維新を推進した訳ではありませんし、一つの法律や定めが社会を動かす訳ではありません。

(「ネイティブキャンプ」)

 天武天皇によって日本のアイデンティティが確立

聖徳太子の治世の30年間は特に大きな争いもなく、まさに「和」の時代でした。天皇中心政治の基礎固めを行ったことは間違いありません。ところが、彼が世を去った途端に乱れ始めます。天皇に成り代わろうとすることを考える豪族まで出ます。風雲急を告げたのは、内政だけではありませんでした。半島や大陸でも大きな動きが続きます。大帝国の隋が滅亡して、唐が興ります。百済と高句麗が滅亡して、新羅が半島を統一します。

そういう中で日本の国づくりに頭を悩ませた人たちがいます。一人は大化の改新を行った天智天皇です。彼は中国に倣って強権的に国を治めようとします。しかし、周りの豪族から反発を受け、身辺が危うかったこともありますし、都を一時的に移したりもしています。そういう姿を間近で見ていたのが天武天皇です。彼は天智天皇の弟で、壬申の乱で権力を握った天皇です。歴史の教科書ではあまり大きく扱われていませんが、彼が日本のかたちを定め、それを守るために律令制度を導入し、その理屈を『古事記』の中に書き込みます。

天武天皇が考えた日本のかたちは、天皇中心の地方分権国家です。そして、台風の目が無風地帯であるように、国家の中心になるためには、権力を放棄した方が豪族も民もなびくはずという逆発想をします。権力者として力を振り回すのではなく、権威者としての天皇を目指すことを考えます。ただ、理念だけでは現実の世界を動かすことはできません。そアイディアを制度に落とし込んだのが律令制だったのです。そして、この理屈について書き遺したのが『古事記』だったのです。この3本セット、つまり理念と制度と理論書の3つが天武期に揃います日本という国名、天皇という称号、律令制と記紀の編纂が天武期から始まっているのは偶然ではありません。日本のアイデンティティが確立した瞬間だったのです。詳しくは拙著『日本のかたちと古事記』(幻冬舎、2024)を読んで下さい。

(「www.amazon.co.jp」)

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