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クマを「敵」にして問題は解決するのか ―― 産経「正論」「熊の跳梁許す現代的手法の誤り」から考える、クマ問題と新聞の責任

「『産経』(9/23日付)がクマ問題について、おかしな評論文を掲載しました」

女性

「どういう内容ですか?」

「「熊の跳梁(ちょうりょう)を許すな」という内容で「正論」欄に掲載されました」

女性

「徹底的に取り締まれということですか?」

「軍事評論家の兵頭氏によって書かれた文章ですが、そのような趣旨の文章になっています」

女性

「クマが人里に出没するようになった原因を、どのように捉えているのですか?」

「そういう分析を一切行っていません。単純に、「クマ=野獣=危険な生き物」なので排除すべきという論調で一貫しています。場合によっては、弓を使ってでも追い払えと書いています」

女性

「エサがなくなって人里に降りてきているので、私なんかは、ある意味クマは被害者だと思っていますけどね」

「一番いけないのは、ニホンオオカミを明治時代に絶滅させたことです。そこから森の生態系が徐々に狂い始め、戦後の間違った森林政策でさらに狂い、過疎化によって里山が崩壊をし始め、その結果がクマ、イノシシ、シカ、アライグマの出没という現象に繋がっているのです」

女性

「何事も原因を見つめて、対策を考えなければいけないと思います。思い付きで対症療法的に処理したとしても、さらに別の問題が発生することになります」

「頂点捕食者を中心に、肉食動物、草食動物、植物、昆虫、微生物たちが循環的な生態系を形づくっている森が生きた森です。そういう森を維持管理する観点から、先人は里山を人工的に作って、そこを動物たちとの「緩衝帯」として管理していたのです」

女性

「何千年という長い間、上手くいっていたのに、ここに来て狂い始めたということですね。ここからが本論です ↓表紙の提供は「太めちゃん」です」

 なぜ、軍事評論家にクマ問題で文章を書かせるのか――問われる「正論」の編集責任

「熊の跳梁を許す現代的手法の誤り」と題して書かれた冒頭の文章を紹介します。「近代以前、本州の人里を、山の熊や狼がわが物顔で徘徊したという話を、あまり聞かないだろう」と問題提起をした上で、その理由について、かつては村人たちや犬が「発見の都度、排撃意志を表し」、そういった「村一丸の害意や≪殺気≫を…感じ取り、…里への近接を忌避するように習慣付けられていたのだろう」と言います。だから今のような「微温的で本気度が伝わり難い対応」では、クマたちは「≪人里出没の権利≫があるのだと心得るに至る」のではないかと言っています。だから、対策としては厳しくクマを排撃することを考えられたしといった結論になってしまいます。しかし、この結論に至るまでには、クマの生態や森林環境、里山の変化についての検討がほとんどありません。少なくとも「正論」という看板を掲げる評論としては、検証が不足していると言わざるを得ません

そもそも「正論」は、各界の専門家が社会で起きた問題について、その専門の立場から意見を述べるというコンセプトで健筆を競っている欄として設けられたと思われます。軍事評論家にとって、クマ問題は専門外です専門外の人が敢えて意見を述べる場合は、その分野のことについて、きちんと調べる、専門家の意見を聞いたり文献を調べたりするべきです。今回のことで言えば、動物生態学や明治以降の森林政策や鳥獣政策について学んでからにして欲しいと思っています。勝手な思い込みで書かれてしまっていますので、その結果、クマ問題について現在蓄積されている生態学的知見や行政上の問題認識との間に、大きな隔たりが生じています。

そしてそれは同時に、産経新聞社の編集の力量を見透かされるという問題にも及びます。『産経』の愛読者を間違った方向に導くような評論文をくれぐれも載せないように、どうか編集のバージョンアップを図って頂きたいと思っています。特に「正論」欄は『産経』の「看板」だと思います。出された原稿をそのまま掲載するのではなく、何らかのチェックをして頂きたいものです。現在ではAIを含め、原稿の事実関係を短時間で検証する手段も格段に増えています。とりわけ執筆者の専門領域を離れたテーマを扱う場合には、編集部によるファクトチェックをこれまで以上に徹底していただきたいと思います。

(「ベレ出版」)

 クマは「敵」なのか――人と野生動物の境界が崩れた本当の理由

前口上はこの位にして、今回の兵頭氏の論文について、何が問題なのかということについて述べたいと思います。まず、一番の問題点は、クマを「野獣」と呼んで、“敵”扱いにしているということです。共生という観念が全くありません。日本は森林率約67%を誇っています。森と湖の国と言われているフィンランド、スウェーデンとほぼ同じ位の森林率を誇っている「森林大国」ですが、そもそもこのことを自覚していないのではないかと思われます。彼が例として挙げているスペインとフランスですが、いずれも森林率が30%台です。SDGs(持続可能な開発目標)の17の目標の中に「森林の持続可能な管理」「陸上生態系の保護」が謳われています。国土の約3分の2を森林が占める日本にとって、森林生態系を維持し、人と野生動物との適切な関係を構築することは、国土政策そのものと言ってよい重要課題です。

本題の「なぜ、クマが人里に現れ始めたのか」ということですが、「2人の会話」にあるように、森林の生態系が崩れ始めているからです。崩れ始めたきっかけは、明治に入って野生動物の狩猟を条件付きで許可したことによります。近代化に伴って狩猟銃が普及し、羽毛や毛皮などを目的とした商業的捕獲も拡大しました。鳥獣保護の制度も次第に整備されていきましたが、その過程で多くの野生動物が強い捕獲圧にさらされました。そこから、森の生態系が崩れ始めたのです。

乱獲によって、トキ、コウノトリは日本の野生下で絶滅しました。さらに、ツル(主にタンチョウ)、アホウドリ、サギ、エゾシカといった野生動物を絶滅の淵まで追い込みました。最悪だったのは、生態系の上位に位置していたニホンオオカミを絶滅に追い込んだことです。ニホンオオカミはシカなどを捕食していたと考えられており、その消失が日本の森林生態系にどのような長期的影響を及ぼしたのかについては、なお慎重な検証が必要です。しかし少なくとも、人間がオオカミという「頂点捕食者」を排除し、森林生態系そのものを大きく改変してきた歴史を抜きにして、今日の獣害を論じることはできません。

兵頭氏は「近代以前、本州の人里を、山の熊や狼がわが物顔で徘徊したという話を、あまり聞かないだろう」と指摘していますが、それは江戸時代までは里山が形成され、それが野生動物たちとの「緩衝帯」となっていて、「頂点捕食者」を中心に奥山は生きた生態系として保持されていたからです。その里山も限界集落が増大する中で、徐々に崩壊しつつあります。「緩衝帯」というのは、あくまでも人里に人がいて、生活をする痕跡を継続的に動物たちに示すことによって成り立つものです。それが近年、弱体化しているということです。

つまり、現在のクマ問題は、「クマが人里へ攻め込んできた」という単純な話ではありません。人口減少と高齢化、農林業の衰退、耕作放棄地の増加、里山利用の縮小によって、人間の生活圏そのものが後退し、その空白に野生動物の生息域が広がってきたという側面があります。環境省自身も、こうした人間活動の低下をクマ類などの分布域拡大の要因として挙げています。そう考えれば、問題の中心に置くべきなのはクマの「排撃意志」ではなく、人間と野生動物との境界をどう再構築するかという国土管理の問題なのです。

(「日本気象協会」~山の神が消えた~)

 

 クマ問題が問いかける新聞の役割――現象ではなく原因を報道する

クマ問題の本質は、クマが人間の領域に入ってきたことだけにあるのではありません。人口減少や農林業の衰退によって里山が荒れ、人間の側が長い時間をかけて維持してきた「境界線」を後退させてしまったことに大きな原因があります。必要なのは、クマを恐れて排除することでも、逆に野生動物を無条件に保護することでもありません。「人には人の領分があり、山には山の領分がある」という関係をもう一度つくり直すことです

先人が里山という物理的な境界をつくり、山への畏敬という精神的な境界を守ってきたように、現代の科学と行政の力によって、新しい「人間と自然の境界線」をつくることです。そのことこそ、クマ問題を一時的な駆除で終わらせない、本当の意味での共生政策ではないでしょうか。今回の「正論」の論文がある意味、日本の国民の“標準的な認識”なのかもしれません。そのように一般の国民が思い込むような報道を続けているマスコミにも問題があると思っています。社会の事象には必ず原因があります。本来、新聞はその原因について精密な分析のもと、対策も含めて社会に示す必要があると思っています。定期購読される新聞には、現在も消費税の軽減税率8%が適用されています。そうした制度上の扱いを考えても、新聞には単なる情報商品の提供を超えた公共的役割が期待されている、と私は考えています。

クマが町に現れた――その現象だけを追い、危険性を報じ、駆除の是非を論じるだけなら、新聞でなくてもできます。新聞に求められているのは、その一歩奥にある「なぜ」を追究することではないでしょうか。なぜクマは人里に現れるようになったのか。なぜ里山は衰退したのか。なぜ人と野生動物との境界が失われたのか。その原因を歴史、人口、農林業、生態系といった複数の視点から掘り下げてこそ、初めて「評論」になるのだと思います。

「正論」という看板を掲げる以上、一つの価値観や思い込みにとらわれることなく、読者がそれまで見えていなかった問題の構造を見せてほしい。国民の目を見開かせるような文章が掲載される紙面であり続けてほしい。速報性ではネットやSNSにかなわない時代だからこそ、むしろ新聞には「読んだ後に、それまでとは少し違って世界が見える」という役割が残されているのだと思います。

(「キャノンITソリューソンズ」)

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