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司馬遼太郎がこよなく愛した幕末の志士たち/明治維新と戦国時代を繫げて観る  

  • 2020年4月20日
  • 2020年4月21日
  • 歴史
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 司馬遼太郎は何故、幕末の志士たちを好んで書いたのか|無私の心が煌(きら)びやかに光る、幕末の時代

司馬遼太郎は戦国の武将や、明治維新期の人物について多くの作品を遺しています。彼が追究したのは、透き通ったような人間の生き方だったのではないかと思います。そのような生き方をする人間は、いつの時代にもいますが、バックライトが躍動的で美しければ、その人物がさらに輝きを増すと考えたのでしょう

彼の言葉を紹介します

明治国家は清廉で透きとおったリアリズムをもっていた。維新を躍進させた風雲児・坂本龍馬、国家改造の設計者・小栗忠順、国家という建物解体の設計者・勝海舟、新国家の設計助言者・福沢諭吉、無私の心を持ち歩いていた巨魁・西郷隆盛、自己と国家を同一化し、つねに国家建設を考えていた大久保利通、これら明治の父たちは、偉大であった」(『明治という国家』日本放送出版協会.1989年)

彼が挙げた「偉大」な男たちは勝海舟と小栗忠順(ただまさ)は幕臣ですが、後は地方出身者です。勝海舟は身分はそんなに高くはありませんでした。彼について司馬は「勝海舟は、日本史上、異様な存在でした。異様とは、みずからを架空の存在にしたことです。架空の存在とは、みずからを『国民』にしてしまったことです」(司馬遼太郎 前掲書216ページ)と述べています。小栗忠順は余り知られていない人物かもしれません。彼について「小栗の生涯は、わずか41年でした。張りつめた生涯でした。門地が高かったために、立身を求める必要もなく、私心もありません。幕府は安心してかれに重職を歴任させました。かれの眼中はただ徳川家あるのみでした。徳川国家が極度に衰退していることを百も知った上で、歴史のなかでどのような絵を描くかということだけが、かれの生涯の課題でした。『おれが本当に得意なのは、経済だよ』と、晩年に語ったのは、若いころ小栗の政敵だった勝海舟でした」(司馬遼太郎 前掲書30-31ページ)と書いています。

勝海舟を説明した「国民」の意味が分かりにくいと思いますが、要するに武士の身分でありながら、時代を先取りした自分自身を幕末の時代から演じていたと言っているのです。この勝と徳川慶喜が明治維新の功績者だと、司馬は評価します。

幕末期は、日本の周辺には植民地支配を目論んでいる西欧列強やロシアの船が出没し、危機感が高まった時期です。アヘン戦争で大国の清が敗れたことや黒船来航など、西欧の軍事力がインプットされる中で、自分のことより日本の行く末を案じた者たち。無私という言葉が当てはまるほど、彼らの言動は首尾一貫したものでした。その清々しさが大作家の心を揺すぶったのでしよう。

 明治維新は体制内の権力移譲であった

明治維新をどう捉えるか、という問題があります。歴史家や大学の研究者はこれをブルジョア革命として考える方が多いと思います。それはそれとして、自分の見解を「研究会」の中で中学や高校の教員にそれとなく押し付けないようにして欲しいと思います。社会的な事象というのは、見方や考え方によって結論が変わるものです。

明治維新を国家という視点から見た場合、頂点の天皇、皇室制度は何ら揺らいでいません。江戸城で勝海舟と西郷隆盛が話し合いをしますが、両者の違いは幕府、つまり武士政権を存続させるか、させないかの違いです。両者は「尊皇」で共通していますので、革命ではありません。革命というのは、社会体制の根本的な変革を意味するからです。

 世界の侵略の歴史を踏まえて、明治維新を見る

 

明治の頃までで日本が外国との関係で緊張関係を持ったのは、7世紀の白村江の戦いの頃、13世紀の元寇、戦国時代の頃と江戸の末期から明治にかけてです

緊張関係があった戦国時代の頃というのは、豊臣秀吉が天下をとった頃です世界の覇権をスペイン・ポルトガル(1580~1639の間はポルトガルがスペインに併合されているため、このように表記する)が握っていた時代ですそのスペイン・ポルトガルがアジアを標的にします。実は、1529年のサラゴサ協定でスペインとポルトガルは、東半球はスペイン、西半球はポルトガルということが決められていたのです。その協定を見ると、広島県辺りを境にして東日本はスペイン、西日本はポルトガルと、勝手に決められています。もちろん、そのことを知っている日本人は当時は誰もいません。

2017年にトランプ大統領と習近平国家主席が首脳会談をした際に、世界を2つの国で治めようという提案が習近平の方からあったといいます。歴史は繰り返すと言いますが、人間が考えることはいつの時代でも同じだということです。

スペイン・ポルトガルが侵略の魔の手を伸ばしたのは、豊臣秀吉の頃です。彼らは「キリスト教信仰+侵略+貿易」の3点セットで迫ってきたのです。信仰でカモフラージュして、貿易のうまみをちらつかせながら、弱い所を見つけて破壊行為をするというものでした。彼らは、島原地区やキリシタン大名の大村氏の領地の寺社を破壊しています。

今、中国は日本に対して、孔子学院での儒教をカモフラージュにして、貿易のうまみをちらつかせながら、尖閣周辺で挑発行為を繰り返しています侵略者の考えることは、いつの時代も同じということです今の日本の政府は、中国共産党の正体を誰も見抜けていませんが、豊臣秀吉は独特の嗅覚で、それを瞬時に見抜いたのです。彼が九州平定をした時に現地を回って、実際にスペイン人やポルトガル人に会い、彼らの軍艦にも乗り込んでいます。独特な直感が働いたのでしょう。島津氏平定を成し遂げ、その後彼らと会い、その直後にバテレン追放令(1587年)を出しています。

その後、秀吉は冊封体制を求める明に対して武力行使をする決意を固め、朝鮮に道案内を求めますが断られたため、朝鮮征伐に乗り出します。それと同時に、フィリピンのマニラにいたスペインの提督に対して、日本に従わなければ攻撃を加えるという旨の手紙を送っています。

 スペインの提督は本国に援軍を要請していますので、かなり驚いたと思われます。秀吉の朝鮮への攻撃については、彼らも独自ルートで情報を掴む中で、日本は一筋縄ではいかないと判断します。

その後、日本は徳川の時代となります。秀吉の外交政策を家康が受け継ぎ、鎖国体制を敷きます。鎧兜(よろいかぶと)と鉄砲で武装した武士が国中にいれば、どの国も侵略など考えようともしなかったのです。天下泰平の260年は、実は防衛力・軍事力がもたらした平和な日々だったのです

幕末に日本周辺が波高しになったのは、簡単に言えばミリタリーバランスが崩れたためです。軍艦、大砲といったものが作られ、防衛力の不均衡が生まれたため、外国からの勢力が日本に近づくようになったのです。現在においても、その力学は生きています。

西欧列強の動きをいち早く感じ取ったのが、吉田松陰(1830-59)ではなかったかと思います。彼が生きた時代は、世界は欧米列強の「植民地分捕り合戦」の真最中です。19世紀の後半の時点で、アジアで何とか独立を保っていたのは、日本と朝鮮、タイくらいのものです。そのような欧米列強の軍事力を目の当たりに感じて、危機感を抱いていたのです。彼は、北海道をのぞく日本全国をくまなく2回歩いて回っています。そういう中で、日本の進むべき道を懸命に模索したのだと思います。

松陰は『幽囚録』を書き遺しています。その中で、カムチャッカ、オホーツクを奪い、琉球、李氏朝鮮の日本への属国化、満州、台湾、フィリピンの領有について書いています。そのことをもって、彼を侵略主義者とレッテルを貼ったりする方がいますが、読み方が真逆ですし、彼は権力者ではありません。欧米列強、西洋人に奪われたアジアの地を奪い返し、保護しようという考えを一市井人として述べているに過ぎません。一民間人が何を考え、発言したとしても思想信条の自由(自由権)により許されるはずです。

しかも、当時は「植民地収奪合戦」の時代です。その位の気構えがなければ、日本は欧米列強の属国となってしまうと考えたのでしょう。現代の価値観で、歴史や人物を見ないことです。そんなことをしたら、武士はすべて殺人者になってしまいます。

松陰は明治維新の前に世を去りますが、その遺志を弟子たちが受け継ぐことになります。国の近代化を急がなければ、やがて日本は欧米列強の支配下に置かれてしまう。そういった切迫感が、若き志士たちを無私の行動に駆り立てます。何の見返りも求めることなく、ただひたすら日本という国のため、母国のため壮絶な生き方、死に方をします。

司馬遼太郎氏は彼等の御魂に直接触れ、その思いを後世に伝えるために、彼らをモデルにした作品を多く描いたのだと思います

読んで頂きありがとうございました



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