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軍国主義はどこから始まったのか(その4) ―― 消された幕臣・小栗上野介 / 幕府近代化の立役者と、日本を変えたもう一つの維新史

  • 2026年6月9日
  • 歴史
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「来年のNHK大河ドラマは最後の勘定奉行・小栗上野介(こうずけのすけ)に決定したそうです。題して「逆賊の幕臣」だそうです」

女性

「幕末モノですね。小栗上野介という人を全然知らないのですけど……」

「無理もありません。教科書にも載っていません。しかし、地元の高崎市では関連史跡を訪れる観光客の増加が見込まれるので、4月にさっそく推進協議会を立ち上げたそうです」

女性

「動きが素早いですね。驚きました」

「小栗上野介は最後の将軍の慶喜によって罷免されてしまいます」

女性

「どうして罷免されたのですか?」

「慶喜と意見が合わなかったのです。小栗は薩長との徹底抗戦を主張します」

女性

「そんなことで罷免してしまうのですね」

「慶喜の将軍としての度量が分かるということです。職を解かれたので倉渕町権田に、妻子や家臣らと共に隠せいをします。そこで過ごした期間はわずか65日という短いものでした」

女性

「にも関わらず、どうして地元の人たちは彼を尊敬しているのですか?」

「その間に、沢水が細く水田耕作に困っていた小高地区の村人のため、小栗はフランス式測量技術で用水路を整備します。実はこの「小高用水」は、現在も小高地区を潤しています」

女性

「まだ、使われているのですね。それは驚きです」

「そんなこともあり、地元では「小栗さま」ということで、多くの人に親しまれているそうです。小栗まつりという行事まであるそうです」

女性

「そうなんですね。ここからが本論です ↓表紙写真は「美術展ナビ」提供です」

 幕府の近代化を担った「幻の宰相」

小栗上野介忠順は文政10年(1827年)、神田駿河台(現在の東京都千代田区)で旗本の家の長男として生まれました。若い頃から才覚を表した小栗は、34歳で日本初の遣米使節の目付としてポウハタン号に乗り込み渡米。続けてアフリカ、アジアと巡り、約9か月をかけて視察しました。帰国後は外国・勘定・江戸町・歩兵奉行など幕府の要職を歴任。世界で得た見聞をもとに、日本の近代化に向けた多くの業績を残しました」(「高崎市デジタル広報5月号」)。

小栗が手掛けた主な改革や近代化は下の表にまとめた通りです。それを見ると、彼が単なる幕臣ではなく、世界を視野に入れながら幕府の近代化と財政改革、さらには産業育成を考えていた人物であったということが分かります。1860年、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため使節団を派遣しましたが、小栗はその目付(監察)として参加し、現地で日米為替レートの交換交渉もしています。アメリカの新聞にその交渉ぶりが絶賛され、米国人が日本の使節を見る目は変わったと言われています。

行財政改革 藩を廃し郡県制への移行、大統領制導入を主張
軍事・軍制改革 海軍建設計画を建議

小石川小銃製作所の建設

金融政策 初の公式兌換紙幣(江戸横浜通用札)を発行

国立銀行設立構想

貿易振興 兵庫開港に合わせて日本初の株式会社「兵庫商社」を設立

商工会議所の前身となる

関税率の改定交渉

鉱工業 横須賀製鉄所(造船所)建設

近代的雇用制度や洋式簿記を導入

インフラ整備など 郵便、電信、ガス灯、鉄道の整備を提案

横浜にフランス語学校を開校

築地に外国人用ホテルを建設

ところが、明治政府にとって、小栗のような存在は都合の悪い人物でした。新政府は、自分たちが政権を握る正当性を示すために、旧幕府を「無能で遅れた悪の組織」として批判する必要がありました。しかし、幕府の最高エリートである小栗の存在は、その物語を根底から揺るがすことになります。もし、彼をそのまま高官として登用すると、「幕府にも優秀な人材がいて、近代化を進めていたではないか」ということになり、新政府の面目が立たなくなってしまいます。そんなこともあり、戊辰戦争の混乱の中で処刑にしてしまったのでしょう。

新政府は、小栗という「人間」を抹殺しましたが、彼が遺した「近代化の遺産(システムや施設)」は100%そのまま利用しました。小栗が建設を主導した横須賀製鉄所(造船所)は、そのまま明治政府の海軍工廠となり、日本海軍発展の礎になりました。のちに日本海海戦でバルチック艦隊に完勝した連合艦隊司令長官の東郷平八郎(1848~1934)は自宅に小栗の子孫を招き、「勝てたのは小栗さんが横須賀造船所を造ってくれたおかげだ」と謝辞を述べています。大隈重信も「明治政府の近代化政策は、ほとんど小栗上野介の模倣(パクリ)にすぎない」と述べています。

(「前橋新聞-mebuku」)

 財閥形成と藩閥政治の結合

実は、小栗家の知遇を得て両替商を営んでいた美野川利八を三井家がスカウトします。美野川はそれを機に三野村利左衛門と改名し、やがて三井の大番頭となります。彼は小栗上野介が将軍に罷免されたのを知ると、幕府に未来なしと判断し、勤皇派との接触を開始します。戊辰戦争の勝敗の鍵を握るのは最新兵器をいかに多く集めるかであり、そのためには莫大な軍資金が必要でした。三井は巨額の融資を行い、新政府軍を支えたのです。

維新後、新政府の財務担当として三井側から吹田四郎兵衛が送り込まれ、船舶会社、通商会社、金融業務などの設立を提案しました。そして、それらを税金によって設立・運営をし、軌道に乗ったところで民間に安い値段で払い下げたのです。明治になった雨後のタケノコのように資本主義が発達したと言われますが、何のことはない、政府関係者が自分の利権を兼ねてサポートしていたに過ぎないのです

さらに、藩閥政府の要人たちは財閥を味方にとりこむため、婚姻関係を財閥関係者との縁結びとして積極的に利用しました。財閥関係者と閨閥(けいばつ)になり、自分の政治的・経済的地位を安泰とするためです。薩摩出身で大蔵大臣、総理大臣を歴任した松方正義ですが、明治天皇から子供は何人いるのかと聞かれて、その数が分からず「調べてからお答えします」と返事をしたという逸話があります。その松方家の結婚相手として選ばれたのが豪商の血筋の方たちだったのです――川崎造船所の創業者、山下汽船の創業者、森村組の社長、鉄道庁長官、東京地下鉄道の社長などです。その松方正義が明治十四年に大蔵大臣に就任した途端に、深川セメント、長崎造船所や金山、銀山の官業払下げ(民営化)などが行われました。こうして、政治権力と財界との結び付きは、一層強固なものになっていったのです。

(「TBSテレビ」)

 「財閥支配下の軍国主義」はいかに形成されたか

明治維新後に形成された三井、三菱、住友、安田、古河、大倉、浅野、川崎、藤田などの財閥は、結婚関係を通して、巨大な人的ネットワークを築いていきました。広瀬隆氏は『日本近現代史入門』(集英社)の中で、「明治政府の要人閨閥は果てしなく鼠算式に、財閥ピラミットの底辺を広げていった」と述べています。

そして明治政府は日清戦争、日露戦争を経て、さらに軍備拡張へと進んでいきます。時期によっては、国家予算の4割から8割が軍事関連予算に充てられ、その資金は軍服、造船、兵器などの調達資金として使われ、軍需産業は巨大な利益を手に入れ、「経済そのものが、軍需工場なしには生きられないよう、急速につくり変えられていった」のです(同上)。このように、絶えず戦争をするような国家に化けてしまったのです。もちろん、軍部が戦線を拡大したことは間違いありませんが、それを後ろから後押ししたのが政治家であり、財閥だったのです。広瀬氏はこうした構造を「財閥支配下の軍国主義」と呼んでいるのです。

日本を開国して近代化に着手したのは、明治政府ではなく、江戸幕府です。それを先導したのが小栗上野介でした。しかし、彼の名前は歴史の教科書に載っていません。明治維新から連なる現政権が消し去りたいと思っている名前なのかもしれません。来年の大河ドラマでどのように描かれるのか分かりません。しかし、少なくとも舞台となった江戸時代を正確に描きつつ、戊辰戦争は反対派に対する絶滅作戦であり、明治維新は日本が誤った方向に進んだきっかけをつくった「事変」であったという視点から描いて欲しいと思っています

(「You Tube」)

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