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大学全入時代――日本の大学の競争力が落ちている / 競争原理を導入して時代の要請に応えられる大学教育を

「「大学は出たけれど」というフレーズを知っていますか?」

女性

「戦前の小津安二郎の映画ですよね」

「小津安二郎を知っているのですか?」

女性

「私は、映画には少しうるさいんですよ。小津安二郎を知らずに映画を語れません。戦前の小津安二郎、戦後の黒澤明です」

「それはそれは、御見それしました」

女性

「戦前は分かりましたが、もう少し細かく言うと、昭和の初めの頃の世相をバックに撮った映画ですよね」

「ニューヨーク発の世界大恐慌のあおりを受けて、日本でも多くの企業や銀行が倒産をしました」

女性

「銀行も倒産したのですか?」

「当時はセーフティーネットがありませんでしたからね……」

女性

「それで現在は、銀行にも大学にもセーフティーネットがあるという話にもって行きたいのでしょ?」

「そうです、ズバリですが、どうして分かったのですか?」

女性

「大体、いつもワザトラマンなので、読めてしまうのです」

「ウルトラの父がいて、ウルトラの母がいて、そして太郎がここにいる ♬」

女性

「すいません、歌わないでいただけますか。しかも、その歌を知っている人は、もう少ないと思いますよ」

「21世紀の新しい時代に合った大学のかたちについて論じていきたいと思います ↓」

 「最も強いものが生き残るのではない、常に変化に対応できるものが生き残ることができる」(ダーウィン)

ダーウィンが『種の起源』の中で言った言葉です

21世紀は激しい変化の時代になると思います。というか、時代が進展すればする程、変化の度合いは激しくなる傾向を示すと思います。

どうしてなのか。生み出される富の量が日々加速度的に増えるからです。当然、エネルギーが増大しますし、それが新しい時代の景色を我々地球人に見せることになるからです。見せられた側は、刺激を受け、それを変化させます。ただ、中には新しい景色を見ても変化しようとしない存在物がいます。2極分化です。人間はどうしても固定観念をもって様々なものを判断します。その固定観念が強い人、柔軟に時代に対処できる人がいます。それはある意味、仕方がないでしょう。ただ、その両者の差が激しくなる時代が到来したということです。

 変化の先鞭は国立大学がつけるべし

日本では国公立大学というだけで、一つの忖度が働くようです2017年に長野大学が私立大学から公立大学に転身したところ、公立ブランドで人気が出て、志望倍率が一気に約6倍になったということです。私立大学の頃は、定員割れによる赤字続きで、経営難に陥っていたようですが、そのブランド効果に大学側も驚いているようです。

 それはそうだと思います。公立大学になったからといって、急にカリキュラムが変わり、教授陣が刷新された訳ではないからです

単なるブランド志向に支えられた人気は、やがて見透かされて元の木阿弥に戻るかもしれません。これを好機と捉え、大学改革に結びつけることができるかが勝負の分かれ目となるでしょう

大学は総じて対応が遅いというのが、高校の進路指導をしている教員が誰もがもっている感覚だと思います。もちろん、大学によって温度差があるのですが、学生募集やカリキュラム改革、入試の内容や選抜の仕方や日程などで努力の跡が余り見られません。

例えば、国立大学はそれぞれが独立行政法人になったのですから、国大協と交渉して入試日程を各大学で自由に設定できるようにしたらどうかと思います現在は前期日程と後期日程方式で、国公立大学は2校しか受験できません。これについて、誰も問題意識をもたないようですが、他の私立大学と同じく、自由に受験日程を定めれば良いと思います

国公立を3校、4校、5校と受験できるようにすべきだと思います。横並びの発想ではなく、優秀な受験生を一人でも多くとり、育てるという気概が欲しいものです。何となく来るならおいでみたいな雰囲気になっています。

その一方で高大連携プログラムといって、高校側に課題を投げかけようとしているところがあります。高校は勉強を教えるところ、大学は学問の府なのです。勉強は常識を含めて、確定した法則や真理を教えること、学問は本当にそれが真理なのかどうなのかを研究すること。それぞれ違う役割をもっているので、基本的には連携などする必要はないと考えます。

そういうことを含めて、大学側は学問の何たるか、その心構えを初歩から教え、21世紀に必要な学問研究ということを常に意識させるような学生を多く育てて欲しいと思います。何となく就職のステップ的な存在になっていますが、本来大学はそういうところではないはずです。

 競争原理を導入して、最高学府としての質を高める努力を

プロのスポーツ選手は激しい生存競争とも言うべき試合を通して、自らの技術と精神力を磨いていきます。それが、観る者を魅了し、フアンはそれを観たいがために会場に足を運び、お金を払ってでも観ようとします。

 大学も理屈は同じです。ゆるま湯に浸かっていれば、質の低下が起こります。「THE世界大学ランキング」というのがあります。日本勢は東京大学が36位、京都大学が54位でしたが、上位200校に入ったのは、この2校だけです。それ以外は、低迷もしくは下落をしています。例えば、大阪大学は2011年は120位だったのが、2020年は380位、東京工業大学は2011年105位が2020年は330位、東北大は120位から220位という具合です。

それに比べて中国の大学の躍進ぶりは目を見張るものがあります。清華大学がアジア勢で最も高いベスト20に入ってきました。

中国はともかく、日本の大学が総じて競争力を低下させているのは、どうしてでしょうか。原因があるところに必ず結果があります

その点、『日経』は「大学『選択と集中』奏功せず」という記事の中で、豊田長康氏(鈴鹿医療科学大学学長)の「国立大の法人化後、日本の研究力が海外に比べて相対的に低下したと断言できる」というコメントを紹介しています。

どういうことか。独立行政法人にしたということは、国から一人立ちしたということです。ただ、国も急に突き放す訳にはいかないので、ある程度はサポートするでしょうが、基本的にはそれぞれの大学で身の施し方を考える必要があります。

お金がなければ大学債を発行することを考えれば良いのです。あるいは、先進的な研究をして特許料を大学の運営費にまわすこともできます。ベンチャー企業と協力することもできますし、アイディアを持っている人がいれば、その起業を手助けして、株式公開に至れば、多くの資金を手に入れることも可能です。

そのように、従来の大学という枠の中で考えるのではなく、自由闊達な論議を進め、自由な発想で大学人の叡智を結集することが求められているのです

 「象牙の塔」の中にいて、世間と隔絶した価値観で過ごす時代ではないということです

国は「高等教育の修学支援新制度」を今年度から導入しました。これはいわゆる、大学無償化の措置です。本当に経済的に困っている学生を対象にしたものならば良いとは思いますが、バラ撒きの範囲が広げれば広げるほど、効果は薄れ、大学のレベルも下がることになるでしょう。

一つの政策が、どういう意味と効果をもっているのか、事前に熟考した上で実行すべきでしょう

読んでいただき、ありがとうございました。

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